十月の二十日過ぎの頃に、六条の院に帝の行幸がありました。紅葉の盛りで、興趣も深いにちがいない行幸なので、帝から朱雀院
にもお誘いがあって、院までがお越しになることになりました。こんなことは世にも珍しい、またとない盛儀だというので、世人も心をときまかしております。 主人側の六条の院でも趣向を凝らし、目もまばゆいばかりのお支度をなさいます。 午前十時頃、六条の院に行幸がありまして、まず東北の町の馬場御殿うまばのおろど
にお入りになります。左右の馬寮めりょう
の御馬を引き並べて、左右の近衛府このえづかさ
の武官たちが並び立った作法は、五月の端午に日の競射の儀式と見まちがえるほどそっくりでした。 午後二時過ぎには、南の町の寝殿にお移り遊ばします。お通り道の反橋そりはし
や渡り廊下には錦を敷き、外からあらわに見えそうなと所には、絵を描いた絹の幔幕まんまく
を引き、物々しく設営されています。 東の池に船を幾艘か浮かべて、宮中の御厨子所みずしどころ
の鵜飼うか いの長おさ
と、六条の院の鵜飼いとを一緒にお召しになって、池に鵜を下して使わせます。鵜が小さな鮒ふな
などを幾匹もくわえて見せます。 そうしたことも、わざとらしくご覧に入れるというのではなく、帝がお通りになる途中のお慰みに用意されているのでした。 築山の紅葉は、どちらの御殿のも見劣りすることがないのですけれど、西の町の秋好む中宮のお庭のは、格別美しいので、西の町と南の町の中仕切りの廊下の壁を崩して、中門を放ち、秋霧もさえぎることが出来ないほど見通しをよくして御覧に入れます。 帝と朱雀院のお席を二つ整えて、六条の院の主人あるじ
のお席は一段下がって設けてありましたのを、帝のお言葉によって同列にお直しになりましたのは、すばらしいことと思われましたが、帝はそれでもまだ、充分に、規定通りの恭敬のお気持を表しきれないことを、残念にお思いなのでした。 池で取った魚を、左近衛さこんえ
の少将が持ち、蔵人所くろうどどころ
の鷹飼たかが いが北野で狩りをして獲ってきた鳥一番ひとつがい
を、右近衛の少将が捧げまして、寝殿の東から帝の御前に進み出て来ました。寝殿の正面の階段左右にひざまずいて、献上のことを奏上します。 太政大臣が、帝のお言葉を二人にお伝えになって、それを調理して御膳にさしあげます。 親王みこ
たちや、上達部かんだちめ などの御馳走の支度も、いつもとは目さきを変えて、珍しいお料理を用意させていらっしゃいます。皆お酔いになって、日の暮れかかる頃に、宮中の楽所がくしょ
の楽人がくにん をお召しになります。大袈裟な大規模の舞楽ではなく、新鮮で優雅に演奏して、殿上童でんじょうわらわ
が舞いました。あの昔、朱雀院で紅葉もみじ
の賀が を催されたふるい日のことが、例によって思い出されます。 賀王恩がおうおん
という音楽が奏せられる時、太政大臣の末の若君の十歳ばかろなのが、たいそう上手に舞いました。帝が御衣おんぞ
をお脱ぎになって御褒美にくださいます。父の太政大臣が庭上に降りて、お礼の拝舞をなさいました。 主人の源氏の院は、庭上の菊をお折らせになって、昔、菊を挿頭かざし
に差し替えて、青海波せいかいは
を舞った時のことをお思い出しになります。 |
色まさる
籬まがき の菊も をりをりに 袖うちかけし
秋を恋ふらし (ひとしお色香のまさった 籬の菊の花も折りにふれ 昔袖を打ちかけて舞った あの秋の日を恋しく 思い出すことだろう) |
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と、太政大臣にお詠みかけになります。太政大臣も、 「あの時は、同じ青海波を源氏の君と御一緒に舞ったものだが、今、自分も太政大臣として人よりは抜きん出た身分になったけれど、やはりこのお方は、特別なこの上ない御身分だったのだ」 とお悟りにならずにはいられません。時雨しぐれ
が時を心得たように、今、降りはじめました。太政大臣は、 |
紫の
雲にまがへる 菊の花 濁りなき世の 星かとぞ見る (瑞祥ずいしょう
の紫雲しうん かと見ちがえそうな
美しい紫の菊の花に似た 准太上天皇のあなたは 濁りなき聖代の 輝く星かと思われます) |
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「<時こそありけれ菊の花>
の古歌のように、益々お栄え遊ばして」 と申し上げます。 夕風が、濃い色や薄い色の様々な紅葉を吹き落とし、庭に敷いてゆきます。それは錦を敷いた渡り廊下に見まがいそうです。その庭に、器量も姿も可愛らしい、すべての名門の童たちが、青と赤の白橡しらつるばみ
の袍や、蘇芳すおう 、葡萄染えびぞめ
の下襲などを、いつものように着付けて、髪は例のみずらに結って、額に天冠をつけただけの扮装で、短い曲をほんの少しだけ舞いながら、紅葉の蔭に入って行くところなど、実際、日の暮れるのも惜しいほどに思われます。楽所なども大げさな演奏はしません。 |