〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/08/18 (木)

藤 裏 葉 (十一)
来年は源氏の君が四十歳におなりなので、そのお祝いのことを、朝廷をはじめ世を げて、大変な準備をしていらっしゃいます。
その秋、源氏の太政大臣は、准太上じゅんだいじょう 天皇の位を頂かれ、御封みふ も増え、年官ねんかん年爵ねんしゃく などもみんな加わります。そうでなくても、この世はすべて思いのままでいらっしゃるのに、やはりめったにない例だったので藤壺の宮の時にならって、院司いんじ などにも任命されました。こうして何事もことのほかに威厳をお加えになりましたので、これからは参内なさるのも面倒なことになるだろうと、一方ではお案じなさいます。
帝はそれでもまだ、源氏の君への待遇を不十分に思し召され、世間をはば って御位をお譲りになれないことが、朝夕のお嘆きの種なのでした。
内大臣が、太政大臣に御昇格なさって、夕霧の宰相は中納言になられました。その昇進のお礼廻りにお出かけになります。ますます輝きを増された御容姿をはじめ、不足な点が何一つない婿君を御覧になって、主人の太政大臣も、雲居の雁の姫君を、人に負かされるような宮仕えをさせるよりは、かえってこの婿と結婚させてよかったと、考えをお変えになります。
女君の大輔たいふ乳母めのと が、昔 「六位風情の婿君では」 とそしった宵のことを、何かの折につけて、夕霧の中納言は思い出されますので、白菊がちょうど身頃に紫に色変わりしたのを、乳母にお与えになりながら
浅緑 若葉の菊を 露にても 濃き紫の 色とかけきや
(昔浅緑のほう を着ていた 六位の若僧のわたしが 今日、濃紫きむらさき の袍を着て 三位の中納言になるとは 思いもかけなかっただろう)
「辛かったあの時の一言は決して忘れないよ」
と、こぼ れるような愛嬌のある笑顔で、おっしゃいます。
大輔の乳母は恥ずかしくて顔向けが出来ず、困惑しながらも、中納言を可愛いお方だと思います。
二葉より 名だたる園の 菊なれば 浅き色わく 露もなかりき
(お小さい時から 名門の若君でいらっしゃる あなたsまですもの どうして浅緑の袍の色を 軽蔑する者などがいりましょう)

「どんなにかお気にさわっていらっしゃいましたことやら」
と、いかにも物馴れした厚かましさで、苦しい言い訳をします。
中納言になられて御威勢が増し、しゅうと の太政大臣邸での御一緒のお住居すまい も手狭になりましたので、故大宮のお邸だった三条殿にお移りになりました。少し荒れていたのを、非常に立派に修理して、大宮のおいでになったお部屋を美しく改装して、お住みになります。
昔の幼い恋が思い出されてなつかしいお住居です。前庭の草木も、あの頃はまだ小さかったのが、今はよく茂った大木になり、木蔭をつくり、一叢薄ひとむらすすき も伸び放題に乱れていたのを、よく手入れをおさせになります。遣水の水草も取り払ってきれいにしたため、いかにも気持よさそうに流れています。
風情のある夕暮のひと時、お二人お揃いでお庭を眺めながら、あの情けなく辛い思いをした幼い頃の思い出話などをなさいますと、昔恋しいことも多くて、あの頃はまわりの女房たちも何と思っていたかと恥ずかしく、女君はいろいろとお思い出しになります。
昔からこのお邸に居女房たちで、まだおひま を取らずに、部屋々々にいる者などが、お二人のお前に集まって来て、心から喜び合うのでした。男君が、

なれこそは 岩もるあるじ 見し人の ゆくへは知るや 宿の真清水ましみず
(宿の真真水よ お前こそ岩をあふrて この邸を守る主人あるじ だもの 昔の主人だった大宮の 御行方を知っているだろうか)
とお歌いになりますと、女君は、
なき人の かげだに見えず つれなくて 心をやれる いさらゐの水
(亡き大宮のお姿は 影も映らないのに そ知らぬ顔して 小さな泉の水だけが 気ままに流れていること)

などとおっしゃいますところへ、太政大臣が宮中から御退出になる道すがら、三条殿の紅葉もみじ の色に目を見張られて、お立ち寄りになりました。
昔、大宮が御在世の頃の有り様とはほとんど変わりがなく、どこもかしこも、落ち着いた雰囲気に住みなしていらっしゃる若いお二人のお住居が、明るく晴れやかなのを御覧になるにつけても、感慨無量でいらっしゃいます。
夕霧の中納言も改まった表情で、大臣の感慨に誘われて泣いた顔を少し赤らめ、いつもよりしんみるとしていらっしゃいます。申し分なくお似合いの初々いういう しい御夫婦ではいらっしゃるけれど、女君は、ほかにもまたこの程度の御器量の人はなくもないだろうと思えます。けれども男君の方はこの上もなく美男でいらっしゃいます。
古参の女房たちも、お前に座り込んで、ふるい昔の思い出話をあれやこれやと申し上げます。さっきのお二人のお歌を書きつけられた紙がそこに散らばっているのを大臣はお見つけになり、ほろりと、しんみりしていらっしゃいます。
「わたしもこの遣水に聞いてみたいことがありますが、年寄りの不吉なぐちは遠慮することにして」
とおっしゃって、

そのかみの 老木おいき はむべも 朽ちぬらむ 植ゑし小松も こけ 生ひにけり
(あの昔の老木が 朽ちて死んでしまったのも 無理はないことよ あの頃植えた小松も 苔が生えてしまったのだもに)
とお詠みになります。男君の乳母の宰相の君は、大臣のあに当時の冷たかったお心を忘れていませんので、今こそという顔つきで、
いづれをも 蔭とぞ頼む 二葉ふたば より 根ざしかはせる 松のすゑずゑ
(お二人のどちらをも わたしは頼りにしています 長に頃からたがいの根を からみあわせた松のように 睦まじくお育ちになられた方々ゆえ)
と詠みました。年老いた女房たちも、こういう意味の歌ばかりをとりどりに詠みますのを、夕霧の中納言は面白くお感じになります。女君は困って顔を赤くして、聞き辛がっていらっしゃいます。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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