〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/08/11 (木)

梅 枝 (九)
内大臣は、こうした明石の姫君の御入内のお支度を、他人事ひとごと としてお聞きになるにつけても、ひどく気にかかり、淋しい気持に沈んでいらっしゃいます。
雲居の雁の姫君は、今を娘盛りとばかり美しく成長されて、このままではもったいないくらいの可愛らしい御様子なのです。所在無く物思いにふさぎ込んでいらっしゃるのが、親の御身としては一方ならぬお嘆きの種田というのに、あのお相手の夕霧の中将の態度が、相変らず平然としていらっしゃるので、今更こちらから弱気に進んで申し出るのも世間体せけんてい の悪い話しだし、こんなことなら、あちらが熱心に望んでいる時に、いっそ承諾していればよかったものを、など、人知れずお悩みになられて、今では一方的に先方ばかりが悪いともお考えになれません。
内大臣がこうして少しは折れておいでになった御様子を、夕霧の中将は耳になさいますけれど、あの当時のひどくつれ なかった内大臣のお心を恨めしく思っていらっしゃるものですから、さりげないふうを装い、落ち着いた態度を保っていらっしゃいます。それでもさすがにほかのひと に心をうごかすというお気持にもなれないのです。心から姫君が恋しくてたまらない時も多いのですが、浅緑のほう の六位風情とあなど った乳母めのと たちに対して、せめて中納言に昇進した姿を見せてやろうという意地がお固いのでしょう。
源氏の君は、夕霧の中将が、妙にいつまでも身の定まらないのを御心配なさって、
「あの姫君のことをあきらめてしまったのなら、右大臣や中務なかつかさ の宮などが、それとなく婿にというように言ってきておられるから、どちらかに決めてはどうか」
とおっしゃいます。夕霧の中将は押し黙ったまま、恐縮したように控えていらっしゃいます。源氏の君は、
「こういう女のことでは、わたし自身も、父帝の畏れ多い御教訓にさえ従おうとも思わなかったのだから、口を出したくないのだが、今となって思い合わせると、ほんとうにあの御教訓こそは、後の世まで長く、人の心の掟にするべき御意見だった。いつまでもぼんやり独身でいると、何かわけでもあるのかと、世間でらち もない憶測もするだろう。前世のえにし にひかれてつまらぬ女と、とどのつまり一緒になるようになれば外聞も悪い。そうなっては運勢が尻すぼまりにもなりかねない。しかしまた、たいそうな高望みをしても、思い通りになるものでもなく、人には限度があるものだから、あまり浮気心は持たない方がよい。わたしは幼い時から宮中で育てられて思うように出来ず、窮屈に暮していた。ちょっとしたしくじりでもあれば、すぐ軽薄だと非難を受けはしないかと、慎んでいたのに、それでもやはり好色の罪をこうむ って、肩身の狭い思いをしたものだ。自分はまだ位も低く気楽な身分だからと油断をして、勝手気ままな振舞いなどしてはいけないよ。自分でも気がつかずにいつの間にか増長してくると、浮気心を抑えてくれるような妻がいない場合には、とかく女の問題で賢い人がしくじるといった例は、昔にもよくあった。愛してはならないひと に恋をして執着してしまい、相手の浮き名を立て、自分も女から恨みを受けるのは、後世ごせさわ りにもなるものだ。しまったと思いながら一緒に暮す相手が、自分の心にかなわず、我慢しようにもしきれない面があったとしても、やはり思い直すように努めるのがいい。もし妻に親があれば、その親の心に免じて、またはもし、相手に親もなくて、暮らし向きが不如意な場合でも、当人がいじらしい人柄なら、それを一つの取り柄と思ってでも見直して連れ添うのがいい。自分のためにも、相手のためにも、結局はよくなるようにと配慮をするのが愛情が「深いということなのだよ」
などと、お閑で退屈していらっしゃる折には、女の問題に関する御注意ばかりを、しきりにお教えになります。
こうした源氏の君の御教訓に従って、夕霧の中将は、冗談にもせよ、ほかの女に心を寄せたりするのは、雲居の雁の姫君が可哀そうだと、人から言われるまでもなく思っていらっしゃいます。
女君も、いつにもまして、内大臣がこの頃嘆いていらっしゃる御様子に、恥ずかしくて、何という情けない身の上だろうと悲しみに沈んでいらっしゃいます。それでもうわべはさりげなくおっとりと見せて、その実、悩み暮していらっしゃるのでした。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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