〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/08/10 (水)

梅 枝 (六)
東宮の御元服は、二月の二十日過ぎに行われました。たいそう大人びていらっしゃいますので、身分の高いお歴々は競争で、姫君たちを入内させたいと望んでいらっしゃいます。ところ源氏の大臣が明石の姫君の入内について並々でなく御熱心なので、かえって競争しない方がましだろうと、左大臣なども思い止まられたという噂です。それをお聞きなった源氏の君は、
「それはとんでもないことだ。宮仕えというものは、大勢のお妃たちがお仕えして、その中で少しでも魅力を競争し合うのが元々の筋道だろう。こんなことで多くのすばらしい姫君たちが、みんな家に引き籠められてしまttら、惜しい話しだ」
とおっしゃって、明石の君の御入内は延期になさいました。この姫君の御入内の後で順々にと、入内をさし控えていらっしゃったのですが、源氏の大臣のこうした御意向をそれぞれお聞きなって、まず左大臣家の三の君が入内なさいました。麗景殿れいけいでん と申し上げます。
明石の君の入内にそなえて、源氏の君の昔の御宿直所とのいどころ だった桐壺を立派に改造なさいました。
東宮も、姫君の御入内を待ち遠しがっていらっしゃいますので、いよいよ四月に入内と、お決めになりました。
お支度の御調度類も、これまでのものの上に、さらにたくさん御用意なさいます。源氏の大臣御自身も、お道具の雛形や図案などまでよく吟味なさって、それぞれの道のすぐれた名人たちを招集なさ、丹念に磨いてお作らせになります。草子そうし 箱にお収めになる歌集などの草子類は、そのまま習字のお手本になさることが出来る字の美しいものをお選びになります。その中には後世に名を残しておられるような昔の最高の能筆家たちの筆跡も、実にたくさんありました。源氏の君は、
「ばんじにつけて、昔に比べて次第に劣ってきて、浅薄になってゆく末世だけれど、ただ仮名だけは、現代の方が、この上もなく上手になってきました。昔の書は、筆法にはかな っているようだけれど、のびのびとした自由な精神があまり出ていなくて、どれも似ていて個性的でなくなりました。巧妙でうま味があるという書風は、近年になってからはじめて表現出来る人々が出てきました。わたしが熱心に仮名の手習いに身を入れていた頃、特に難のない手本をたくさん集めたものです。その中に、秋好む中宮の母君六条の御息所みやすどころ が、何気なくさらさらと走り書きなさった一行くらいの、さり気ないお手紙をいただいて、たぐいない見事なお筆跡 だと感心したものです。そんなことから、あの方への思いが深まった末に、ついにはあらぬ浮き名をお立てすることにもなったのです。御息所はそれを深く恨んでいらっしゃいましたが、わたしはそれほどには、薄情なつもりはなかったのです。こうして秋好む中宮の御後見をさせていただいているのを、御息所は思慮の深いお方でしたから、今では草葉の蔭からでも見直していて下さることでしょう。秋好む中宮のお筆跡 は、繊細で風情がおありだけれ、ちょっと才気が足りないといえるでしょうね」
と、紫に上にひそひそとお話しなさいます。
「亡くなられた藤壺の尼宮のお筆跡 は、たいそう深みがあって優美なところはありましたが、どこか弱い所がおありで、余韻が足りない感じでした。朧月夜おぼろづきよ尚侍ないしのかみ こそ当代の名手でいらっしゃるけれ、あまりしゃれすぎていて、癖もあるようです。そうはいっても、このお方と朝顔の前斎院と、あなたとが、字のお上手な方と言えるでしょうね」
とお認めになります。紫の上は、
「そんな方々のお仲間入りは、とても気がひけますわ」
と申し上げますと、
「あんまり謙遜しすぎてはだめですよ、あなたの字は、ものやわらかで、なつかしい風情のある点では、格別なのだから。漢字が上手になる割に、仮名にはどうもまとまりのない字がまじるようですが」
などとおっしゃって、まだ何も書いていない草子なども作り加えて、表紙やひも などもたいそう見事におさせになります。
兵部卿ひょうぶきょう の宮や、左衛門さえもんかみ などにも書いて頂こう。わたしも一揃いは書いておこう。あの方々がいくら気負ってお書きになったとしても、わたしだってその程度は書けるだろう」
と御自慢なさいます。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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