〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/08/02 (火)

真 木 柱 (十五)
髭黒の大将は、帝がこのように玉鬘の君のお部屋へお越し遊ばしたとお聞きになって、いよいよ気が揉めてならないので、早く退出するように、しきりにせきたてられます。玉鬘の君御自身も、このままでは、帝寵をこうむ るなどという分不相応な事態も起こりかねないと悩みましたので、のんびりともしていらっしゃられず、退出する口実をもっともらしくいろいろと捻り出して、父内大臣なども、上手に帝に取りつくろって下さり、やっとお暇を許されました。帝は、
「それなら仕方がない。これに りて、もう二度と参代させないと言い出されても困るから。それにしてもわたしはとても辛い。誰よりも先になたを思っていたのに、人に奪われて、今ではその人物の御機嫌を取るようになったとは。昔の、恋人を奪われた誰かの例も引き合いに出したいような気がする」
と仰せになって、思いがけない結果になったのをお心の底から口惜しく思し召しておいでです。
噂に聞いていらっしゃったよりも、実際に見たほうが、この上なく美しかったので、はじめからそうしたお気持ちがなかったにしても、そのままではお見過ごしになれなかったのでしょう。ましてこうなってはいっそう嫉ましく、名残も尽きず、残念に思っていらっしゃいます。けれども玉鬘の君にほんの一時の出来心のように思われて疎まれまいとなさい、いかにも愛情をこめて、将来のことをいろいろお約束なさって、御自分になつけようとなさいます。
玉鬘の君は、ただもう畏れ多くて、帝のおっしゃった昔話の女が、 「現実に誰と契ったか覚えもないほど、まるで夢路をさまよっているようなわたしなの」 と歌ったのと同じ気持ちで、困りきっていらっしゃいます。
輦車てぐるま を寄せて、お二人の大臣家からのお迎えの人たちも、待ちくたびれていらっしゃいます。
髭黒の大将も、何と言うことなくうるさくつきまとって、せきたてるまで、帝は玉鬘の君の側からお離れになりません。
「こうまで厳重に警備するとは、うるさくてんらない。いくら近衛の官人だといっても」
と、お憎みになられます。
九重ここのへかすみ 隔てば 梅の花 ただばかりも 匂ひ じやと
(幾重にも霞が隔てたなら 梅の花は香りさえ 匂ってこないのだろうか あの人の邪魔になってあなたも もう宮中に来られないのか)
これというほどでもない帝の御製ぎょせい ですが、帝のお姿や御様子を の当たりに拝しながら伺う時なので、さぞ趣も深く感じられたことでしょう。帝が、
「 <野をなつかしみ一夜ひとよ 寝にける> の古歌のように、あなたと二人、ここで一夜を明かしたいけれど、あなたを手放すのを惜しんでいるにちがいない人も、身につまされて気の毒だから。ところでこれからはどうやってお便りをしたらよいものか」
と、思い悩まれていらっしゃるのも、たいそうもったいないと玉鬘の君は思うのでした。
かばかりは 風にもつてよ 花の に 立ち並ぶべき 匂ひなくとも
(これくらいほのかなお便りは 風におことづけくださいまし ほかのお妃たちのお美しさには とても比べられない わたしですけれど)
さすがにまったく取りあわないというそぶりでもないのを、帝はいとしくお思いになりながら、振り返りがちにお帰りになられました。
髭黒の大将は、今夜このまま玉鬘の君を、御自分のお邸に引き取るつもりでしたが、前もってお願いしていたのでは、お許しが出そうもないので、その日になっていきなり、
「わたしは急にひどい風邪をひいて病状が重くなりましたので、気楽な自宅で静養しようと思いますが、その間、夫婦が離れていてはとても気がかりなものですから」
と、おだやかに言い訳をつくられてそのまま玉鬘の君を、さっさとお邸にお引き取りになりました。
父内大臣は、突然のことなので、こうした儀式もしない引き上げ方は略儀すぎてどうかとお思いになりましたけれど、強いて、その程度のことに文句をつけて邪魔をするのも、髭黒の大将が気を悪くなさるだけだとお考えになりましたので、
「どうともよろしいように。もともと、わたしの自由にならない人のことですから」
と、御返事をなさいました。
源氏の君は、全く突然のことで不本意にお思いになりましたが、どうなるものでもありません。
玉鬘の君も思いもかけない方向になび いてしまった塩焼く煙のように、心外な髭黒の大将との結婚をつくづく情けないとお思いになります。ただひとり大将だけは、大切な宝を盗み取ってでも来たように思って、嬉しくてたまらず、悦に入って、これでようやく気持も落ち着きました。
あの時、帝が玉鬘の君のお部屋にお入りになられたことを嫉妬して、ひどく怨みがましくおっしゃるのも、玉鬘の君は気に入らないし、いかにも下品なような気がして、ご夫婦の仲はあくまでよそよそしい態度をおとりになり、まうます御機嫌の悪い様子です。
あの式部卿の宮家も、あれほど強いことをおっしゃったものの、今ではひどく困っていらっしゃいます。髭黒の大将はあれ以来まったく宮家を訪れません。思いがかなって北の方にした玉鬘の君の御機嫌取りに明け暮れいそいそと過ごしていらっしゃいます。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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