〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/31 (日)

真 木 柱 (十二)

髭黒の大将は、北の方がお里へお帰りになったのを聞いて、
「何というわけの分からないことを。まるで若い者どうしの喧嘩のように、面当つらあ てがましいことをなさったものだ。御本人は、そんなに物事の始末を性急に、きっぱりつけるような性質でもないのに、式部卿の宮が、こんな軽はずみなことをなさるのだ」
と思って、お子たちもあることだし、世間体もみっともないので、思い悩んだあげく、玉鬘の君に、
「こんな厄介なことが起こってしまったようです。かえって、さっぱりして気が楽になったようにも思いますが、あの人どうきょしても、邸の片隅に引っ込んでいてくれるような気のはらないおとなしい人なのです。それなのに、式部卿の宮が突然思い立ってこんなことをなさったのでしょう。このままでは、世間の噂にもわたしが一方的に悪者にされそうですから、ちょとあちらに顔出しをしてきましょう」
と言ってお出かけになります。立派なほう に、柳の下襲したがさね青鈍色あおにびいろ の薄織物の指貫さしぬき をお召しになって、身づくろいなさった髭黒の大将のお姿は、いかにも堂々としています。この方がどうして玉鬘の君に不似合いなことがあろうと、女房たちは思うのですが、玉鬘の君は、こうしたいざこざをお聞きになるにつけても、御自分の身の上が情けなくてならないので、大将の方に、目もお向けになりません。
髭黒の大将は、式部卿の宮に恨み言を申し上げようと出かけられたついでに、まず御自分のお邸にお帰りになります。木工もく の君などがお出迎えして、これまでのいきさつをお話しいたします。姫君のお悲しみの御様子をお聞きになりますと、男らしく耐えていらっしゃいますけれど、思わずほえろほろと涙をこぼされる御様子は、たいそうおいたわしく見えます。
「それにしても、これまでの長い年月、異常で奇狂な振る舞いの多いあの人の病気を、大目に見てきたわたしの気持を、よく分かってはいらっしゃらなかったのだな。まったく気ままな夫なら、とても今まで連れ添ってはいられなかっただろう。まあいいさ、あの人自身は、もうどうしようもない病人と見えるから、どうなったところで同じことだ。それにしても幼い子供たちを、いったいどうなさるつもりなのやら」
と、嘆息をつかれながら、あの真木柱を御覧になりますと、筆跡は子供らしいけれど、歌に詠まれた姫君のお気持がしみじみ可哀そうで、姫君が恋しくてたまらないので、道々涙をおし拭いながら、宮のお邸に参りました。ところが北の方は、お会いになる筈もありません。
「なに、大将がただ時勢におもねる気持は、今に始まったことではないのだ。ここ数年、あの玉鬘の君にうつつを抜かして浮かれているという噂を聞いてからだって、ずいぶん長いことになるのに、今更、何時ともわからぬ改心の日などをあてにして待てるものか。これから先、いっそう気でも狂ったような情けない姿ばかりさらすことになるだろう」
と、宮が北の方にご意見なさるのも、ごもっともなことです。髭黒の大将は、
「あまりに大人気ないことをなさるものです。まさか捨てられる筈もない子供たちもいることだしと、のんびり構えていたわたしの怠慢は、かえすがえすお詫びの申し上げようもありません。今はただ穏便に、大目にお見逃しくださって、ただ、わたしが悪い、弁解の余地もないと、世間が認めてから、こういう処置をお取りになるのがいいと思いますが」
など、言い訳に苦心していらっしゃいます。
「姫君だけにでも会わせて下さい」
とおっしゃいましたが、宮家では姫君を出しておあげにもなりません。
十歳になる男君は、童殿上わらわてんじょう していらっしゃいます。とても可愛らしく、人のうけもよくて、顔立ちなどはそれほどでもありませんが、なかなか利口で気が利いて、だんだん、ものも分かってきていらっしゃいます。
次男の君は八歳ぐらいで、たいそういじらしくて、姫君にも似ていますので、大将はこのお子の頭を撫でながら、
「これからはお前を、姉君の形見と思うことにしようね」
などと、泣きながらお話しになります。
式部卿の宮にもお逢いしたい旨をお願いしましたけれど、
「風邪をひいて、静養しておりますので」
とおっしゃるので、取りつく島もなくてお帰りになりました。
幼い男君二人を車に乗せて、道々お話しになります。六条の院の玉鬘の君の所には連れて行かれないので、お邸に残して、
「やはりここにいなさい、会いに来るにも気がねがないから」
とおっしゃいます。御兄弟が悲しそうに沈んだ表情で、心細そうに、じっと父君を見送っていた様子が、とても可哀そうなので、心配の種がまた一つふえた思いがなさいます。それでも玉鬘の君の御容姿のいかにも見栄えのする美しさとすばらしさが、物の怪に取り憑かれた異様な北の方の御様子とは比べ物になりませんので、何もかもすべて慰められていらっしゃいます。
その後、髭黒の大将は、北の方にはばったりお便りもなさらず、先頃、引っ込みがつかず、きまりの悪い思いをさせられたことにかこつけて、ますます御無沙汰をきめこんでいるようなのを、式部卿の宮は、はなはだ不埒ふらち な仕打ちだとお嘆きになります。
紫に上もそうしたすったもんだをお聞きになって、
「こんなことで、わたしまでが恨まれることになるのが辛くて」
とお嘆きになるのを、源氏の君は不憫ふびん におおもいになって、
「困ったことだ、わたしの一存ではどうしようもない人間関係から、帝も、わたしのことを面白くなくお思いのようなのです。螢兵部卿の宮なども、わたしを恨んでいらっしゃると聞きましたが、さすがに、思慮深いお方だから、事情を聞いてはっきり納得され、わたしへの恨みも解いて下さったようです。やはり男女の仲というものは、いくら秘密にしたつもりでいても、いつかは隠しようのなくなるものだから、それほど苦にするほどの落ち度は、こちらにはないと思っています」
とおっしゃいます。

源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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