〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/31 (日)

真 木 柱 (十)
その日も暮れ、雪の降り出しそうな空模様も、心細く見える夕暮です。
「ほどい雪で荒れ模様になりそうです。早く」
と、お迎えの方々は出立を御催促しながら、涙を押しぬぐ っては空を見上げて、考え込んでいらっしゃいます。
姫君は、髭黒の大将がとても可愛がっていらっしゃたので、
「父君にお目にかからなくては、これからどうなるのかしら。今から出て行くと、お別れも申し上げないで、もう二度とお目にかかれないことになったら」
と、お思いになって、「うつ伏して、とても出かけられないと思っていらっしゃいます。北の方は、
「そんなお気持なのがほんとうに情けない」
など、なだめすかしなさいます。父君が今すぐにもお帰りになって下さったら、姫君はお待ちしていらっしゃいますけれど、こんあに日も暮れようとしている時、どうして髭黒の大将が玉鬘の君の側からお離れになることがあるでしょうか。
姫君はいつも御自分が寄りかかっていらっしゃる東面ひがしおもて の柱を、これからほかの人に渡してしまうような気がなさるのも悲しくてなりません。姫君は檜皮色ひわだいろ の紙を重ねたのに、ほんの小さく歌を書いて、柱の乾割ひわ れた隙間に、こうがい の先で、押し込まれました。
今はとて 宿 れぬとも れ来つる 真木まき の柱は われを忘るな
(もうこれまでとわたしが この家を去ってしまっても これまで馴れ親しんで来た なつかしい真木の柱よ わたしを忘れないでおくれ)
と、これだけさえ、悲しさの余りなかなか書ききれないで、泣き出してしまわれます。母君は、
「さあ、さあ、そんなことを言っても」
とおっしゃって、
馴れきとは 思ひ出づとも 何により 立ちとまるべき 真木の柱ぞ
(馴れ親しんだと真木の柱は 思い出してくれたところで 今さらどうしてわたしたちが この邸に留まる必要が あろうね真木の柱よ)
とおつづけになります。お側の女房たちも、いろいろと悲しくて、日頃はそれほど気にもとめなかった庭の草木まで、これからは悲しく思い出すだろうと、名残惜しそうに見つめては、涙の鼻をっすすって、嘆き合っています。
木工もく の君は大将付きの女房なので、このお邸に残るのでした。中将のおもとが、
浅けれど 石間いしま の水は 澄みはてて 宿もる君や かけ離るべき
(大将と御縁の浅いあなたが 最後までこのお庭に残られ このお邸を守るべき北の方が お立ち去りなさるとは 何ということでしょう)
「思いもかけなかったことです。こんなふうにお別れすることになろうとは」
と言いますと、木工の君は、
ともかくも 岩間いはま の水の 結ぼほれ かけとむべくも 思ほえぬ世を
(わたしの心はとにもかくにも 言いようのないほど 岩間の水のように悲しみに閉ざされ とても長くは留まれない 殿との仲でしょうよ)
「いえもう、辛くて」
と言って泣いています。
北の方の乗られたお車は出発しました。北の方は振り返って御覧になり、もう二度とこの邸を見ることもあるまいと、心細くなられます。古歌に、 <君が住む宿の梢を行く行くと隠るるまでもかへりみしはや> とあるように、庭の木々の梢もつくづく眺め、 <隠るるまで> も振り返っていらっしゃるのでした。そのお気持は、 <君が住む> からではなく、長い年月住み馴れたお住居すまい ですから、どうして名残惜しくないことがありましょうか。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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