〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/29 (金)

真 木 柱 (六)
日頃、召人めしうど と呼ばれているお手つきの女房で、親しく髭黒の大将にお仕えしている木工もく の君や、中将のおもとなどといった人々でさえそれぞれの身分なりに、大将のこの頃の態度に、心穏やかでなく、あんまりだと恨んでおります。まして北の方はたまたま正気を取り戻されていらっしゃる時なので、そばについていてあげたいようなおじらしい感じで、泣き沈んでいらっしゃいました。
「わたしのことを、ぼけているとか、気でもちがっているようだとか、軽蔑してののしられるのは、ごもっともなことでしょう。でも父宮のことまで引き合いに出してあらこれ非難なさるのを、もし父宮がお耳にされたら、とてもお気の毒なことです。不運なこんなわたしを娘に持たれたばかりに、父宮まで軽々しく見られるのはたまりません。あなたの父に対する悪口はもう聞き馴れていますから、今更わたしは何とも思いませんけれど」
と、横を向いてすねていらっしゃるお姿はとてもいじらしいのです。もともと小柄なお方が、日頃の御病気で痩せ衰え、いっそう弱々しそうに見えます。髪は前にはとても美しく豊かで長かったのに、今は分けとったように抜け落ちて少なくなり。くし もほとんどお入れにならないので、涙に髪がもつれてべったりとからみついているのは、ほんとうに痛々しいのです。
こまやかに整ってはなやかな美しさはありませんけれど、父宮に似て、しっとりと美しいお顔立ちをしていらっしゃるのに、一向におしゃれをなさらないので、はなやかで若々しい風情など、もうまったくどこにもありません。髭黒の大将は、
「父宮の御ことをどうしてないがしろに申し上げたりするものですか。とんでもない。そんな人聞きの悪いことをおっしゃらないで下さい」
となだめて、
「あの通っている所は、それはもうまばゆいばかりの立派なお邸で、わたしのような生真面目一方の野暮な人間が出入りするのも、あれこれ人目に立つことだろうと遠慮されるので、気楽になるよう、女君をこちらに引き取ろうと思ったのです。源氏の太政大臣だじょうだいじん の、ああした世にまたとない御声望は、今更言うまでもなく、気が引けるほど御立派で、万事に行き届いていらっしゃる六条の院に、もし、こちらのみっともない内輪もめの噂などが伝わったりすれば、実に不都合千万です。大臣にも畏れ多くて申し訳が立たないことになるでしょう。どうぞ何とか穏やかに、移って来る人とお二人仲よくしてお付き合いして下さい。もしあなたが父宮のお邸に行ってしまわれても、決してあなたを忘れるようなことはありません。どうなったところで、今更わたしの愛情の薄らぐようなことはない筈ですが、里へお帰りになれば、あなたは世間の物笑いになることでしょうし、わたしも軽率だとそしられるでしょう。やはり、長年の約束を守って、このままお互いに助け合っていきうと思って下さい」
と、なだめながら話されます。北の方は、
「あなたのつれ ないお仕打ちなどは、どうこう思っておりません。人並みでないわたしの困った病気を、父宮も悲しまれて、今更別れ話になっては人の物笑いに種だと、御心労で悩んでいらっしゃるようですから、お気の毒で、里に帰ってもどうして今更お目にかかれようかと思います。源氏の君の北の方の紫の上も、わたしの異母姉妹で他人ではいらっしゃらないのです。あの方はわたしの知らない所で成人されましたが、後になって、玉鬘の君の母親顔をして、面倒を見ていらっしゃるのがけしからんと、父宮は恨んでいらっしゃるようです。けれども、わたしは別にどうこうと気にもしていません。ただ、あなたのなさることを見ているだけですわ」
と、おっしゃいます。
「ずいぶんもの分かりのいいようなことをおっしゃるが、いつものご病気がはじまると、困ったことも起こるでしょう。玉鬘の君のことは、まったく紫の上の御承知のことではないのです。あの方は源氏の君に、御秘蔵の娘のように大切にされていらっしゃるので、こんなふうにさげす まれている玉鬘の君の身の上までは御存じないものですか。紫に上は人の親らしいところなどないお方のようです。それなのに、こんな噂がお耳に入ったら、ほんとうにとんだことになりますよ」
など、終日、北の方のお部屋にいて、いろいろと話されお慰めしていらっしゃいました。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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