〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/30 (土)

真 木 柱 (七)
日が暮れてきますと、やはり髭黒の大将は気もそぞろになって、どうかして玉鬘の君のところへ出かけたいと心があせってこられます。折悪しく、空を暗くして雪が降りだしました。こんな空模様にわざわざ出かけて行くのも人目がうるさく、北の方が可哀そうに思います。また、北の方の御様子も、憎らしげに嫉妬しっと して恨んだりなさるなら、かえってこちらも、それにかこつけて、むかっ腹を立てて当然出かけて行けるのですけれど、今日は北に方がいかにもおっとりと、さり気なくしていらっしゃるので、とても心苦しくなります。大将はどうしたものかと思い悩みながら、格子なども上げたまま、端近くに坐ってぼんやり物思いに沈んでいらっしゃいます。北の方は、その様子を見て、
「あいみくな雪ですわね。この雪では道がさぞ大変でしょうね。夜も更けたようですわよ」
と、外出をそそのかすようにおっしゃいます。もうおしまいなのだ、引き止めたところで無駄だろうと思案していらっしゃる北の方の御様子は、いかにも痛々しく見えます。
「こんな雪では、どうして出かけられるものですか」
と、髭黒の大将はおっしゃった、その口に下から、
「ごうか、ここしばらく見逃して下さい。わたしの本心を分からないで、何かと人が噂し言いふらし、お二方の大臣たちも、ああだ、こうだとお耳になさっては、どんなに御心配なさるだろうかと、その手前もはばか られて、あちらに通うのを途絶えないようにしなければ具合が悪いのです。どうか気持を静めて、わたしの本心を最後まで見届けて下さい。あの人をこちらに移したら出かけることもないので、もうあなたも気が楽になるでしょう。こんなふうに、落ち着いて普通の状態でいらっしゃる時は、ほかの女に心を移す気持もなくなって、あなただただいとしく思われて」
などお慰めになりますと、北の方は、
「お出かけをやめてここにいらっしゃっても、あなたのお心がよそに向いていらっしゃることは、かえって辛うございます。よそにいらしても、わつぃを思い出して下さるなら、それだけで涙で凍ったわたしの袖の氷もとけるでしょう」
など、穏やかにおっしゃっています。
北の方は香炉を持ってこさせて、大将のお召物にいっそう香を きしめておあげになります。御自身は糊気のりけ の落ちたしわ ばんだお召物を無造作に着たふだん着のお姿で、いよいよ っそりと、弱々しそうに見えます。すっかり沈み込んでいらっしゃるのが、髭黒の大将にはいかにも可哀そうで、心が責められるのでした。お目をひどく泣き らされているのだけは、いくらかみっともないけれど、北の方をしみじみと心からいとしいと思う今は、それさえあまり気にもなりません。よくもまあ、今まで長い年月、夫婦として過ごして来たものよと思うのでした。それにつけても、すっかり玉鬘の君に心を移してしまった自分の心の軽薄さが、何ということかと、しみじみ反省されながらも、やはり玉鬘の君の許へ行きたい気持がつのりはやってくるのでした。わざとらしくため息を¥つきながらも、出かける衣裳に着替えて、小さな香炉を取り寄せて、自分で袖に引き入れて香をたきしめていらっしゃいます。
ほどよくしっとりと柔らかくなったお衣裳に、お顔だちも、あの源氏の君のたぐまれ な光り輝くようなお美しさにはとうてい及ばないにしても、なかなか水際立って男らしい御風采で、並々の人とは見えずりん として、気おくれするほど御立派なのでした。供人の詰め所で、お供の人々の声がして、
「雪が少し小止みになりました」
「夜も更けてきたようです」
など、さすがに遠慮しながら、それとなくお出かけをうながすように言っては、それぞれ咳払せきばら いしあっています。中将のおもとや木工の君などが、
「おいたわしい御夫婦仲ですこと」
などと、嘆息を漏らして話し合いながら横になっていますが、北の方御本人は、じっと胸の思いに堪えて、見るからにいじらしく脇息に寄りかかってうち伏していらっしゃいます。と、突然、北の方はすっくと起き上がって、大きな伏籠ふせご の下にあった香炉を取りあげるなり、大将の後ろに近づき、いきなりさっと、香炉の灰を浴びせかけました。
人々がほとんど見届ける暇もない一瞬の出来事でした。髭黒の大将はあまりのことに、茫然と立ちつくしていらっしゃいま。その細かな灰が、目にも鼻にも入ってぼうっとして、何が何やら分別もつきません。灰をいくら払いのけても、あたり一面に立ち込めていますので、灰まみれのお召物もみんな脱ぎ捨てられました。北の方が正気でこんなことをなさるのなら、もう二度と振り向きたくもないほどのあき れ果てたひどい振舞いですけれど、これも、あの物の怪が、北の方を嫌わせようとさせた仕業なのだと、お側の女房たちも、お気の毒に思うのでした。
女房たちが大騒ぎして、大将のお召し換えをお手伝いしますけれど、おびただしい灰が、びん のあたりのも舞い立っていて、あらゆるところが灰だらけになっている気持ちがしますので、善美をつくした六条の院へは、とてもこのままの姿では参上出来そうもありません。
どんなに乱心のせいとはいえ、これはあまりにひどすぎる。今までにない呆れた所行だと、つくづくいまいましくなり、愛想も尽き果て嫌気がさして、さっき、いとしいと思った気持も消え失せてしまいました。
それでも今、事を荒立てては、とんでもない厄介な事になるだろうと大将は気持を静めて、夜中になっていましたが、僧をお呼びになって、加持祈祷かじきとう をさせるやら、大騒ぎになります。
祈祷されている北の方が、大声でわめきののしる声など聞かれると、これでは髭黒の大将がお嫌いになのも無理のないとなのでした
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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