〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/05 (火) 

野 分 (六)
源氏の君は中宮の御殿からそのまま北に通り抜けて、明石の君のお住まいを御覧になりますと、ここはしっかりした家司けいし らしい者も見えず、ただもの馴れた下仕しもづか えの女たちが、草むらの中に下りて庭をあちこちしています。女童めのわらわ などは汗衫かざみ も着ないで、きれいなあこめ 姿のまま気を許してくつろぎ、明石の君がとりわけ御丹精なさって植えられた竜胆りんどう や、朝顔のからんでいる籬垣ませがき も、みなばらばらになって倒れ伏しているのを、あれこれ調べ、引き起こして手入れなどしているようです。
明石の君は寂しさともの悲しさに引きこまれ、ちょうどその時、そう の琴を何となく掻き鳴らしながら、端近くに坐っていらっしゃいました。
源氏の君の先払いの声が聞こえたので、くつろいだのり けが落ちたふだん着姿の上に、いそいで衣桁いこう から引きはずした小袿こうちき を羽織って、きちんとけじめを見せたところは、いかにもたしなみ深く行き届いたものです。
源氏の君は端の方にちょっとお坐りになられて、風のお見舞いだけをおっしゃって、さりげなくお帰りになります。
おほかたに はぎ の葉過ぐる 風のおと も 憂き身ひとつに しむここちして
(ただ一通りに萩の葉を 吹き過ぎていく風の音さえ お泊りもなく帰るあなたに わびしい思いのわたしには やるせなく身にしむものを)

とひとりごとを漏らすのでした。
西のたい の、玉鬘たまかずら の姫君の所では、昨夜、嵐が恐ろしくてまんじりともなさいませんでしたので、今朝は寝過ごして、今、ようやく鏡に向かっていらっしゃるところでした。
「大げさに先払いをしないように」
と源氏の君がおっしゃいましたので、ことさらひっそりとお入りになります。
屏風なども風のためにもな畳んで片寄せて、調度などが取り散らかしてあるところへ、朝日の光がはなやかに差し込んでくる中に、玉鬘の姫君は目のさめるような美しさですわっていらっしゃいます。
源氏の君は姫君のお側近くにおすわりになり、またいつものように、風のお見舞いにつけても、恋の愛のと、例のうっとうしい話しを、冗談めかしておっしゃいますので、姫君は聞くのも我慢出来ず情けない気持になられて、
「こんな辛い思いばかりをするのなら、昨夜の風に吹かれて、いっそどこかへ行ってしまいとうございました」
と、おむずがりになります。源氏の君は、さも面白そうにお笑いになって、
「風と一緒にどこかへ行ってしまわれるなど、軽はずみというものでしょう。そうなさるとしても、どこかお目当てのところがきっとおありにちがいない。だんだんわたしをお嫌いになるお気持がつのってきたのですね。無理もないことだけれど」
とおっしゃいます。玉鬘の姫君は、ほんとうに、思ったままをふっと口にしてしまったと、御自分でもお笑いになるそのお顔の色や、お顔つきが実に美しいのでした。
髪のふりかかった間から覗く頬が酸漿ほおずき のようにふっくらとしているのが、可愛らしく見えます。目もとがあまり晴れやかで愛嬌がありすぎるのが、心持上品さに欠けるようです。それだけが欠点で、ほかには一点の非の打ちどころもありません。

源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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