〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/04 (月) 

野 分 (四)

明け方に風は少し衰えて、ひとしきり俄雨にわかあめ のように雨が激しく降りだしました。
「六条の院では、離れの建物がいくつか倒れた」
など人々が話しています。
風の吹き荒れている間、広大で建物が軒を連ね、そびえるように感じる六条の院では、
「源氏の大臣がいらっしゃる御殿のあたりには、護衛の人々も大勢つめかけているだろうが、東北の御殿などは、人気ひとけ も少なく、花散里の君はさぞ心細い思いをしていらっしゃるだろう」
と、はっとお気づきになって、夕顔の中将は、まだほの暗いうちに六条の院へお出かけになりました。途中、横なぐりの雨がひどく冷え冷えと車中に吹き込みます。空模様も荒涼と身にこたえる感じの上に、心が妙にひきこまれるようにふわふわとさ迷い出るような気分になります。
「いったいどうしたことだ、またひとつの自分に物思いの種が加わってしまったのか」
と思いめぐらせてみますと、
「紫の上への恋心など、全くそれは自分には不相応な、とんでもないことなのに、ああ、今更こんな迷いを抱くとは、なんという狂気の沙汰か」
とあれやこれや思い悩みながら、東北の御殿へ、まずお伺いになります。
花散里の君は昨夜の狂風にすっかり脅えきって、疲れ果てていらっしゃったのを、何かとお慰めしました。人をお呼びになり、風に痛んだそこここを、修理するように指図なさってから、南の御殿へ参上なさいます。
こちらでは御格子も上げていません。夕霧の中将が、紫の上のご寝所のあたりの、ちょうど前の高欄こうらん に寄りかかってお庭を見渡しますと、築山の木々も風が吹き倒して、枝がたくさん折れ伏しています。草むらの荒れた状態はいうまでもなく、屋根を いた桧皮ひわだ や、棟瓦むながわら 、あちらこちらの立蔀たてじとみ透垣すいがい などのようなものがおびただしく散乱しています。
日のひかりがわずかに射し始めますと、嵐の後もまだ心細そうに見える、庭の露はきらきらと光り、そらにはひどくもの淋しく感じられる霧が深く立ち込めています。
夕霧の中将はその景色に感傷的になって、なぜともなく涙が落ちるのをおし拭い隠して、咳払いなさいました。
「中将が来て合図をしているようだね。まだ朝には遠いだろうに」
とおっしゃって、源氏の君がお起きになる御様子です。
何といっていらしゃるのか、紫の上の声は聞こえず、源氏の君が笑い声をあげられて、
「昔、若かった時だって、一度もあなたに味あわせたことのない暁の別れですね。今頃になって、経験なさるとは、あぞ辛いことでしょうね」
と、冗談をおっしゃって、しばらく話し合っていらっしゃるお二人の御気配は、たいそうむつ まじそうで好奇心をそそられる感じです。女君のお返事は聞こえないにしてもかすかに伝わる、こういう冗談などおっしゃっていられるお言葉の感じにも、水も漏らさぬお二人の仲のよさが思いやられて、夕顔の中将は聞き入っていらっしゃいます。
源氏の君御自身で、御格子をお上げになりましたので、あまりお近くにいたのに気が引けて、中将は、つと引き下がってお控えになります。
「どうだった、昨夜は大宮がお待ちかねで、お喜びだったか」
「はい、ちょっとしたことにも涙もろくなっていらっしゃいますので、とてもお可哀そうでなりません」
と申し上げますと、源氏の君は微笑なさって、
「もう先もお長くはあるまい。心をきめて優しくお世話するように。内大臣はどうも、あまり細やかに気をつかってくれないと、大宮がこぼしていらっしゃった。内大臣は人柄が妙に派手好みで、男らしいため、細かい目立たぬ事などには身を入れない方だから、親に孝行するのも、大げさな見栄ばかりを重んじて、人目を驚かそうとするところがある。ほんとうにしみじみとした情愛は、乏しいお人なのだ。とは言っても、なかなか心は奥が深く賢明なお人で、この末世にはもったいないほど充分に、学問も才能もおありで、匹敵する者もなく、優秀なので、こちらが閉口するほど感心してしまう。人間として、こんなふうに欠点がないということは、めったにあるものではない」
などと、お話しになります。
「それはそうと、昨夜のあのひどく恐ろしかった嵐に、中宮の御殿にはしっかりした宮司みやづかさ などがお仕えしていただろうか」
とおっしゃって、この夕霧の中将をお使いとして、中宮にお見舞いの手紙をさし上げられます。
「昨夜の風の音をぢんなお気持でお聞きになりましたでしょう。風が大荒れの最中に、わたくしもあいにく風邪を引きこんでしまいまして、大変なひどい目にあっております。ただ今は静養している次第でして」
と申し上げます。
夕霧の中将は源氏の君のお前を下がって、中の廊下の戸口を通り、中宮の御殿の方へ参上なさいました。黎明れいめい のほの明りの中に浮かび上がった中将のお姿はほんとうにすばらしく、いかにも優美でいらっしゃいます。
東の対の南側に立って中宮の寝殿の方を御覧になりますと、御格子を二間ふたま ほど上げて、ほの明るい朝ぼらけの中に御簾も巻き上げ、女房たちが坐っています。高欄に寄りかかって、年若な女房たちばかりが大勢いるのが見えます。
うちくつろいだ女房たちの身なりは、はたしてどんなものでしょうか、ぼんやりした明け方のほの暗さの中で、色とりどりな衣裳をつけた姿は、誰がということもなく皆それぞれに風情があります。
女童めのわらわ を庭にお下ろしになって、数々の虫籠むしかご に露を与えていらっしゃるのでした。女童は、紫苑しおん撫子なでしこ 、紫の濃いのや薄いあこめ を着て、上に女郎花おみなえし汗衫かざみ などをつけた、季節に似つかわしい衣裳で、四、五人ばかり連れ立っています。
あちらこちらの草むらに近づいては、色とりどりの虫籠を持って歩き廻り、風に荒らされていかにも痛々しそうな撫子の枝を折り取って持ってきます。その姿が霧の中にぼうっと見え隠れするのは、何とも言えない優艶な趣があります。
中宮の御殿の方から、夕霧の中将の立っている所に吹き寄せてくる風は、あまり匂わない紫苑の花さえ、ありったけの匂いを放っているようで、ゆかしい煉香ねりこう の薫りも、中宮のお袖に触れた移り香ではないかと、想像されるにさえすばらしく、心が引きしまってくるような感じがして、中宮の御前に出て行くのもためらわれます。
夕霧の中将が、そっと挨拶の咳払いをして、歩みをお進めになりますと、女房たちはあからさまに驚いた顔は見せませんでしたけれど、皆、奥の部屋へ消えてしまいました。
中宮が入内じゅだい なさった頃などは、夕霧の中将はまだ童形でしたから、御簾みす の中にまで立ち入って、馴染なじ んでいらっしゃいました。そのせいで女房たちも、そうよそよそしい態度はみせません。
源氏の君の御挨拶を、人伝に中宮にお伝えするようにおっしゃって、御簾の内に顔見知りの宰相さいしょうきみ や、内侍ないし などの女房がいる気配がしましたので、その女房たちとしばらく小声で内輪話をなします。
やはり何といっても、この御殿はまたそれなりに、この上なく気品高く日々を暮していらっしゃる御様子です。それを見るにつけても中将は、何かと思い出されることも多いのでした。

源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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