〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/07/04 (月) 

野 分 (二)

紫の上の南の御殿でも、ちょうどお庭の植え込みのお手入れをさせていらっしゃった折も折に、こんなふうに野分が荒々しく吹きはじめたので、古歌にいう <もとあらの小萩こはぎ > が <風を待つ> どころの風情ではなく、葉も落ちてしまい、根もとの淋しくなった小萩には、待つにはげしすぎる風の勢いです。枝も折れに折れて、露もとまるひま のないように、風が吹き散らす様子を、紫の上は少し端近はしぢか にお出になって眺めていらっしゃいます。
源氏の君が明石あかし の姫君の方へお出かけになったところへ、夕霧の中将がいらっしゃって、東に渡り廊下の衝立ついたて 越しに、妻戸の開いている隙間すきま から、何気なくお部屋の方をのぞ いて御覧になりました。女房の姿がたくさん見えましたので、そこに立ち止まって、こっそり見つづけていらっしゃいます。風があまりひどいので、屏風びょうぶ も押し畳んで片寄せてあるため、部屋の中まですかkり見通せます。
ひさし の御座所にすわっていらっしゃるお方こそ、ほかの誰かと見まちがえるはず もなく紫の上に違いありません。気高く美しくて、さっと香気が匂うような感じがします。まるで春のあけぼの の霞の間から、はなやかな樺桜かばざくら撩乱りょうらん と咲いているのを見るような心地です。
隙見している自分の顔にまで、どうしようもないほどその晴れやかさが映ってくるように思われます。紫の上の魅力に満ちた美しさは、あたり一杯に、はなやかに匂いこぼれていて、類い稀なすばらしい御器量なのでした。
御簾みす が風に吹き上げられるのを、女房たちが押えながらどうしたのでしょうか、その時、何か紫の上はにこやかにお笑いになっていらっしゃいます。それが何ともいえないほどお美しいのです。
紫の上は、風に痛めつけられる花々を気がかりに思われて、見捨てては奥へお入りになれないのでした。まわりの女房たちも、それぞれに身ぎれいな姿をしたのが目につきますけれど、紫の上のお美しさには、目移りのしようもありません。
「父君が自分を、紫の上のお側に近づけないように、つとめて遠ざけるようになさるのは、このように人目見た人がただではすまされそになお紫の上のお美しさなので、万一、こんなふうに自分が垣間かいま 見て、心をそそられるようなことがあっては困ると、思慮深い父君の用心から御心配なさってのことだったのか」
と気がつくと、なんとなくそこにいるのが空恐ろしくなって、夕霧の中将が立ち去ろうとするとちょうどその時、源氏の君が明石の姫君のお部屋のある西側から、奥のふすま を引き開けてお戻りになりました。
「何といやな、気ぜわしい風だろう。早く格子を下してしまいなさい。こんな時には男たちも来ているだろうに、これではあんまり丸見えではないか」
と紫の上におっしゃるのを聞いて、夕霧の中将がまた近寄って覗いてみると、何か紫の上がおっしゃって、源氏の君もほほ笑みながら紫に上のお顔を見ていらっしゃいます。とても父親とは思えないくらい、若々しくすっきりとした中にもなまめかしく、今が盛りのすばらしいお顔なのです。
紫の上も女盛りの色香が匂い満ちて美しく、申し分のないお二人の御様子なのを、中将は身にしむばかりに感じますけれど、この渡り廊下の格子も風に吹き払われて、たたず んでいる所が見通しになりましたので、恐ろしくなってそこを立ち退きました。
たった今来たばかりのようにわざと咳払せきばら いなどして、寝殿の縁の方に歩いていらっしゃいますと、源氏の君は、
「ほら、ごらん、言った通りだろう。外から丸見えだったにちがいない」
と、おっしゃって、あの東の妻戸が開いていたから、夕霧の中将が覗き見てしまったかもしれないと、ようやく今になってお疑いになります。
「これまで長年の間、紫の上のお顔をみられるなどということは、夢にもなかったのに、風というものは、たしかに大岩でも吹き上げる力を持っているものだな、あれほど用心深い方々のお心を大風が吹き騒がせて、わたしは珍しくも嬉しい覗き見が出来たものだ」
と、夕霧の中将は思われるのでした。
そのうち家来たちが駆けつけまして、
「とてもひどい大荒れになりそうな風でございます」
「東北の方角から風が吹いておりますから、こちらの御殿はまだお静かなのです」
馬場御殿うまばのおとど や、花散里はなちるさときみ の御殿の南の釣殿つりどの などは東北なので、どうも危のうございましょう」
と、言って、あれこれと風の手当てに大騒ぎしています。源氏の君が夕霧の中将にお尋ねになります。
「中将はどこから来たのか」
「三条の大宮の御殿におりましたが、風がひどくなりそうだと人々が言いましたので、こちらが心配になって参りました。あちらでは、ここにもましてお心細い有り様で、大宮は、風の音さえ、今ではかえって幼い子供のように恐がっていらっしゃrっようです。お気の毒ですから、もうあちらに行かせていただきます」
と申し上げますと、
「ほんとに、早く行っておあげなさい。年をとるにつれて、また子供に返るなどは、とうていありそうもない話だが、どうも老人は誰でもそうなるらしいね」
と、大宮に同情なさって、
「こんな大風でひどい空模様のようですが、この中将がお側に控えておればまずは安心と、中将に任せてわたくしは失礼します」
と。御伝言をおことづけになります。

源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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