〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-[』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻五) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/06/30 (木) 

常 夏 (四)

「内大臣なら、これ以上のすばらしい音色をお出しになるのかしら」
と、実の親に会いたさの思いも加わって、こんな和琴のことにつけてさえ、姫君は、いつになったら、そうした父君が打ち解けてお弾きになるのを聞けるのだろうかと、お考えになります。
<貴河きぬがは の瀬々のうあはら手枕たまくら やはらかに>
催馬楽さいばら を、実にやさしく源氏の君がお歌いになります。
<親 くるつま>
のところは、少しお笑いになりながら、さり気なく掻き鳴らされるすが掻きの風情が、言いようもなく興深く聞こえます。源氏の君は、
「さあお弾きなさい。すべて芸事は恥ずかしがっていては上達しないものです。ただし想夫恋そうふれん だけは、弾きたくても曲名に恥じて、心の内に秘めて弾かない人もあったでしょう。その他の曲なら、遠慮せずに誰とでも合奏なさった方がいいのですよ」
と、熱心におすすめになります。あんな辺鄙へんぴ な片田舎で、どうやら京の生まれだと自称していた、王族の流れを む老女に教えてもらっただけなので、間違いもあるだろうかと気がひけて、玉鬘の姫君は和琴に手もお触れになりません。
「もう少しの間、お弾きになって下さったらいいのに、そうしたら聞き覚えることも出来るかも知れないのに」
と、姫君はもどかしくて、ただ和琴への興味だけにひかされて、源氏の君のお側へにじり寄って、
「どういう不思議な風が吹き添って、こんな美しい音色に響くのでしょう」
と、首をかしげていらっしゃるお姿が、灯影に照らされほんとうに可愛らしく見えます。源氏の君はお笑いになって、
「琴の音にだけは耳の敏感なあなたのために、わたしはしみじみと身にしみる風も吹きつのるのでしょうよ」
と、おっしゃって、和琴を押しやっておしまいになります。それを聞いて、姫君はほんとにいやな御気分になられます。
女房たちがお側近くに控えていますので、いつものような冗談もおっしゃられずに、
撫子なでしこ をたっぷり眺めもしないで、若い人々は行ってしまいましたね。なんとかして内大臣にもこの花園をお目にかけよう。世の中も無常だからと思うにつけても、昔、何かの話のついでに、内大臣があなたのことを話し出されたのも、つい今しがたのような気がします」
と、その時のことを思い出されて少しお話しになるのも、姫君には、しんみりと胸にしみて悲しくなります。

撫子なでしこ の とこなつかしき 色を見ば もとの垣根を 人や尋ねむ
(撫子のような美しいあなたに お会いになれば 昔なつかしくて 父君はきっと母上の行方を お尋ねになりましょう)
「それがわずらわしいので、ついあなたをこうして隠していますが、それもお可哀そうだと思っているのです」
と、おっしゃいます。玉鬘の姫君はお泣きになって、
山がつの 垣ほに ひし 撫子の もとの根ざしを たれか尋ねむ
(いやしい田舎に育った わたしの母のことまで 誰が心にかけていて お尋ねになど なるものですか)
と、ことさらさり気なさそうにお答えになられる御様子は、ほんとうにこの上もなくやさしくて、可憐な若々しさです。源氏の君は、
「あなたが来なければ、心も迷わなかったのに」
と、口ずさまれて、ますますつのる恋心の苦しさから、このままではやはりこらえきれそうもないと思われます。
源氏物語 (巻五) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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