〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/06/19 (日) 

胡 蝶 (五)
四月一日の衣更えで、人々の夏の衣裳に目新しく改めた頃は、空の空気さえ、妙に何かしら情緒が漂っています。源氏の君はたいして御用もなくお暇な時なので、いろいろ管絃のお遊びを催されて、時をお過ごしでいらっしゃいます。
西の対の玉鬘の姫君の所に、人々からの恋文がだんだん多くなっていくのを、やはり期待通りになったと源氏の君は面白がられて、何かにつけて姫君のお部屋にお越しになっては、それらの恋文を御覧になり、お相手にふさわしいと思われるお方には、早くお返事を書かれるようにとそそのかされたりなさるのでした。姫君はいつ入って来られるかわからない源氏の君に気を許さず、困ったことだとお悩みになっていらっしゃいます。
兵部卿の宮が、お気持を打ち明けてまだ間もないのに、 れて苛々いらいら と恨みっぽい愚痴をあれこれ書いてこられたお手紙を御覧になって、源氏の君は会心の笑みをお漏らしになります。
「大勢いたわたしの兄弟の中でも、この兵部卿の宮だけは小さい頃から分け隔てなく、おたがいにとりわけ仲よくしてきたのに、ただこういう¥恋の道に関してだけは宮はこれまでわたしにもずいぶん隠し立てをし通してこられたものですよ。それなのに、この年になってこんなに色めいているお心を見ると、面白くもあるし、お気の毒にも思われる。やはり宮にはお返事をさし上げなさい。多少でも教養があり趣味を解する女なら、おつきあいしてお話相手になる人としては、あの宮のほかにはあるとは思えませんよ。とても魅力のあるお人柄ですから」
と、若い女ならきっと宮に心惹かれるに違いないようなお話しをなさいますが、玉鬘の姫君は、ただもう恥ずかしがってばかりいらっしゃいます。
髭黒ひげくろ の右大将は、実直そのもので、しかつめらしい方ですが、この人まで 「恋の山には孔子ほどの人も倒れる」 ということわざ そのままに、恋の悩みを訴えてこられるお手紙も、これはまたこれで面白いと、源氏の君は皆読み比べられるのです。その中に、唐渡りの薄藍色の紙に、香に匂いをやさしくゆかしくたきしめて、とても小さく結んだ手紙がありました。
「これは、どうしてまたこんなに結んだままなのかな」
とおっしゃって、おあけになりました。
筆跡はじつに見事で
思ふとも 君は知らじな わきかへり 岩漏る水に 色し見えねば
(わたしがこんなにお慕いしていても あなたは御存じないでしょう 湧き返る思いでいても 岩間にあふれる水には 色もなく熱さがわからぬように)
とある書きぶりも現代風で、調子に乗って気取っています。
「これはどなたからの手紙なの」
と源氏の君はお訊きになりますが、姫君は、はきはきとお返事もなさいません。源氏の君は女房の右近をお呼びになって、
「こんなふうにお手紙を寄越される方々の中からいい人を選び出して、お返事をされるようにしなさい。色っぽく浮気な今時の若い人が、不都合なことをしでかしたりするのは、あながち男の罪とばかりは言えない。わたしの経験によって考えてみても、女からの返事がないと何と冷たい情けない人だ、恨めしい仕打ちをすると、その時は分からずやの女だと口惜しがったり、相手がさほどでもない身分の女なら、身の程知らずの無礼なことをするなど思ったものだ。それほど執心しているというのではなく、花や蝶などにかこつけてさりげなく送ってきた手紙には返事もせず、相手を口惜しがらせるようにすると、かえって男の熱はかきたてられることがある。また、女が返事をしないからといって、男がそれっきり忘れてしまうようなのは、女にとって何の罪があるものか。
なにかのついでぐらいにふと思いついた、いい加減な恋文にも、心得顔に早々と返事をするのも、まったく無用のことでで、そんなことをするとかえって、後でどんな災難を招く種にもなりかねない。
何事によらず、女が慎みを忘れ自分の思い通りにして、ものの情趣をわきまえ顔によそおい、風流もよく解するように知ったかぶりを始終していると、結局その結果はろくなことにならない。兵部卿の宮や髭黒の右大将は、真剣なふりをして、いい加減なことをおっしゃるようなお方ではないので、この方々にはあまり、相手の気持が分からないような無愛想な態度をとるのも、姫君としては似合いません。このお二人より身分の低い人々は、相手の恋心のほどに応じて、その辛さ切なさも理解してあげなさい。また、心尽くしの努力の数々も認めておたりなさい」
などとお話しになりますので、玉鬘の姫君は恥ずかしがって顔をそむけていらっしゃいます。その横顔がこの上なく美しく見えます。撫子なでしこ の細長に、この季節の花襲はながさね の爽やかな小袿こうちき を召して、その色合いが現代風で親しみやすく、物腰などは、前にはまだ何といっても、田舎育ちのひな びた名残があって、それがありのままのおっとりした感じにお見えだったものです。ところが今では六条の院の女君たちの御様子を見習うにつれて、身だしなみも垢抜けてきて、なよやかになり、お化粧も念入りになさるので、どこにも不足なところがなく、はなやかで可愛らしくなられました。こんな魅力のある人をみすみす赤の他人にしてしまうのは、どんなに残念だろうと源氏の君はお思いになります。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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