〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/06/17 (金) 

胡 蝶 (三)
南の町の紫の上の御殿の築山のところから漕ぎ出して、中宮の御殿の前のお庭にさしかかった頃に、春風が吹いて瓶の桜が少しはらはらと舞い散りました。空はうららかに晴れて、春霞のたなびく間から、鳥や蝶の女童たちの一行が現れましたのは、いいようもなく風情のある優美な眺めでした。
出演者たちの控え室として、わざわざ幔幕まんまく を張った仮屋などはこちらに移さず、御座所に通じる渡り廊下を楽屋のように使い、折りたたみの椅子いす なども楽人用に用意させてあります。
女童たちが寝殿の階段の下まで進み、それぞれに花をさし上げます。僧に香を配る役の人々がその花を取り次いで、閼伽棚あかだな に加えてお供えします。
紫の上からのお手紙は、源氏の君の御嫡男の夕霧の中将を使者として申し上げます。
花園の 胡蝶こてふ をさへや 下草したくさ に 秋まつ虫は うとく見るらむ
(美しい花園に舞う この胡蝶を見ても 下草のかげに隠れて 秋を待つ松虫はまだ 春をきらいなのだろうか)
中宮は御覧になって、あの紅葉の歌の御返歌なのだと、にっこりなさいます。昨日、船で春の御殿へ伺った女房たちも、
「ほんとにあちらの御殿の春の美しい風景には、とても勝てそうにもありませんでした」
と、花に酔ったようになって口々に申し上げています。うぐいす のうららかな鳴き声に、鳥の女童の舞楽がはなやかに加わって、池の水鳥もどこからとなくあちこちで囀り渡り、曲の終りの急調子になって鳴り止むのが、面白くて名残惜しいようです。胡蝶の女童の舞いは、鳥の舞にもまして、はかなそうにひらひらと飛び立って、山吹の垣根のもとに咲きこぼれた花蔭に舞い入ります。
中宮職ちゅうぐうしき次官すけ をはじめ、しかるべき殿上人たちが次々と御褒美の品々を取り次いで、女童たちに下さいます。鳥の女童には、桜襲さくらがさね細長ほそなが を、蝶の女童には山吹襲の細長を賜りました。まるで前々から用意してあったよ7な手順の良さです。専門も楽師たちには、白いうちき一襲ひとかさね巻絹まきぎぬ などを、それぞれの立場にふさわしくお与えになります。
夕霧の中将には、藤襲の細長を添えて、女の衣裳を肩にかけてお授けになりました。
中宮から紫の上へのお返事には、
「昨日はそちらへ御伺い出来なくて、羨ましさに声をあげて泣きたいほどでした」
胡蝶にも さそはれなまし 心ありて 八重やへ 山吹を 隔てざりせば
(来いという胡蝶に名に 誘われて思わず ついて行ったことでしょう そちらが八重山吹の垣で お隔てにならなければ)
とありました。すべてにすぐれていらっしゃる方々でも、こんな場合の歌はお得意ではないのでしょうか、あまり結構とは申し上げられないお詠みぶりのようでした。
そういえば、昨日春の御殿のお遊びを見物した女房たちの、中宮付きの人々には、紫の上から趣のある贈り物の数々を下されたのでした。でもそんなことまでくだくだしく書くのは、うるさいのでよしましょう。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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