〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/06/16 (木) 

胡 蝶 (二)
こうしてその夜も明けました。朝ぼらけの鳥の囀る声を、秋好む中宮は築山を隔ててねた ましくお聞きになるのでした。
この紫の上の御殿は、いつも春の陽光をたたえていますけれど、恋心を寄せたいような若い姫君がいらっしゃらないのを、もの足りないと思う方々もsりました。そこへ、西のたい の姫君があらわれ、非の打ちどころのない御器量のことや、源氏の君もことの外大切のしていらっしゃる御様子などが、すっかり世間に聞こえて来ましたので、源氏の君の思惑通り、姫君に恋心を燃やす殿方も多いようです。自分こそは姫君の相手としてふさわしいと自認していらっしゃるような御身分の方は、六条の院の女房たちにつてを求めて、意中をそれとなく手紙で伝えたり、またそれを口に出して言い寄る方もありましたが、そうすることも出来ず、ただ心の中に恋の炎を燃やして、恋い焦がれていらっしゃる若君たちなどもいることでしょう。
その中に、実の姉ともいう真相も知らずに、内大臣の御長男柏木かしわぎ の中将などは、恋してしまっているようでした。
兵部卿の宮はまた、長年連れ添われた北の方がお亡くなりになられて、この三年ばかり独り住まいの寂しさをかこっていらっしゃるので、なんの気がねもなく、結婚したいお気持をおもらしになります。今朝もすっかり酔ったふりをよそおい、藤の花を冠に挿してあだっぽくおふざけになっていらっしゃる御様子は、たいそう魅力があります。源氏の君も思惑通りと、内心得意ですけれど、つとめて気づかない顔をしていらっしゃいます。
兵部卿の宮は源氏の君からおさかづき を頂く時に、ひどくお困りになって、
「心に思い悩んでいることがなければ、このまま逃げて帰りたいところです。もうお盃は頂戴出来ません」
と、お盃を御辞退なさいます。
紫の ゆゑに心を いめたれば 淵に身投げむ 名やは惜しけき
(紫のゆかりのある方のため わたしの心は奪われた 恋の淵に身を投げたと あだ な浮き名を流されようと 何の悔いがあるものか)
と、おっしゃって、源氏の君に 「同じ挿頭かざし を」 と、盃に添えて藤の花をさし上げます。
君は御機嫌よくお笑いになり、
淵に身を 投げつべしやろ この春は 花のあたりを 立ち去らで見よ
(恋の淵に 身を投げるべきか否か 思案のためにこの春は 花のような姫のまわりを 立ち去らず見てほしい)
と、しきりにお引止めになるので、兵部卿の宮は、帰ることも出来かねて、今朝の管絃のお遊びは、昨夜以上にまたいっそう興深いものでした。
今日は、秋好む中宮の春の御読経みどきょう の初日でした。人々はそのまま退出なさらず、休み所を拝借して、昼の装束の束帯そくたい にお召替えになる方々が多いのです。ただし差し支えのある方は退出などもなさいます。お昼頃には皆、西南の町の秋好む中宮の御殿にお伺いします。源氏の君をはじめ読経の座に皆ずらりとお着きになりました。殿上人でんじょうびと なども、残らず参りました。すべては、源氏の君の御威勢のおかげで、尊く荘厳な法会ほうえ が営まれます。
紫の上からの御供養として、み仏にお花をお供えになりました。鳥と蝶の衣裳の二組に分けた女童めのわらわ 八人、顔の美しい子を特にお選びになり、鳥になった女童には、銀の花瓶に桜をさしたのを、蝶になった恩ン女童には、金の花瓶に山吹をさしたものを持たせます。同じ花でも花房も見事な、またとなく色のあざやかなものなかりをお使いになりました。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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