〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/06/16 (木) 

胡 蝶 (一)

三月の二十日あまりの頃、春の御殿のお庭は、例年にもまして殊の外に美しさの極みを見せています。照り映える花の色香、さえず る鳥の鳴き声などを、よその町の方々は、南の町はいつまでも春の盛りが留まっているのかしらと不思議にも思い、また評判にもなっています。
築山の木立や池の中の島あたりには緑を増すこけ の風情など、若い女房たちが遠くからでは、はっきり見られないのを残念がっているようなので、源氏の君は、かねて造らせておかれた唐風の船に急いで船飾りをおつけになりました。
いよいい池にその船をお浮かべになる日には、雅楽寮うたづかさ楽人がくにん をお呼びになり船上で音楽をお催しになります。親王みこ たちや上達部かんだちめ などが大勢お越しになりました。

ちょうどその頃、秋好あきこの中宮ちゅうぐう も六条の院にお里退さが りなさっていらっしゃいました。あの昨年の秋、中宮jから 「春まつ園」 とお挑みになった歌のお返事をするのは今がいいと、紫の上はお思いになります。源氏の君も、何とかしてこの花の盛りを、中宮に御覧頂きたいとお思いになり、そうおすすめなさいますけれど、中宮はおついでもないのに、お身軽にそっとお渡りになって、花をお楽しみになるなど、なされない御身分なので、代わりに中宮付きの若い女房たちの中で、こういうことをいかにも喜びそうな者たちをお船にお乗せになりました。
中宮の秋の御所の南の池は、紫の上の春の御殿の池に通じるように造られていて、小さな築山が隔ての関所の役をしております。その山の端先を漕ぎめぐって、その船がこちらに池に漕ぎ廻って来られるようになっています。
源氏の君は、東の釣殿つりどの に紫の上方の若い女房たちを、集めてお迎えになりました。
龍頭鷁首りゅうとうげきしゅ の船を唐風に派手やかに飾りたて、かじ を取りさお をさすわらわ たちは、みな角髪みずら に結わせて、唐風の装束をつけさせました。そうした船で大きな池の中へ漕ぎ出させましたので、こんな唐風の舟遊びなど見たこともない中宮方の女房たちは、ほんとうに未知の外国へ来ているような気がして、すばらしさに感嘆しきっています。
中の島の入り江の岩陰に船をさし寄せてみますと、ちょっとした石の配置も、まるで絵に描いたようです。あちらこちらに霞がたなびいている木々の梢などは、花々に彩られ錦をひきめぐらせたように見えます。
紫の上の御殿のお庭がはるばると眺められて、緑の色の濃くなった柳が枝を垂れており、花も何とも言えない匂いを放っております。
よそではもう盛りのすぎた桜も、ここでは今を盛りとほほ笑み、渡り廊下のめぐりの藤の花も、紫の色濃く咲き始めています。まして池の水に影を映している山吹は、岸から咲きあふれて、この上もない花盛りです。水鳥がいつも二羽つがいで遊びながら、細い枝などくわえて飛びちがっている様や、ちょうど鴛鴦おしどり が波の上に、模様を織り出したように見えるのは、何かの図案として写し取って描いておきたいようです。こうした風景に心を奪われてほんとうに時の経つのを忘れきり、おの の柄も腐らせてしまいそうに、一日が暮れていきます。
中宮方の女房たちが、

風吹けば波の花さえ 色見えて こや名に立てる 山吹のさき
(風が引き寄せると 池の波まで花の咲いたように 山吹色を映している これがあの有名な歌枕の 山吹の崎でしょうか)

春の池や 井手ゐで川瀬かはせ に かようふらむ 岸の山吹 そこもにほへり
(春の御殿のこの池は 山吹の名所の井手の川瀬に 続いているのでしょうか 岸の山吹の花が 池の水底まで咲き匂っていて)

亀の上の 山もたづねし 船のうちに 老いせぬ名をば ここに残さむ
(亀の上に載る蓬莱山ほうらいさん まで わざわざ訪ねて行きますまい このすばらしい船のなかで 命をのばし不老の名を 後の世に残しましょう)

春の日の うららにさして ゆく船は さを のしづくも 花ぞ散るける
(春の日のうらうらとさす 池の中を棹さしてゆく この船の 棹の雫さえ 花の散るよう) 
というようなとりとめもない歌を、詠みあっては、どこへ行くのやら帰るのやら、忘れてしまうくらいに、若い女房たちが心を奪われているのも、無理もない池の水面の風景なのでした。
日の暮れかかる頃に、 「皇?おうじょう 」 という舞楽の音色がたいそうおもしろく聞こえて来ます。それを耳にしながら、夢うつつのうちに釣殿にさし寄せられ船から下りました。
この釣殿の飾りつけはたいsぷ簡素ですけれど優美な風情があって、中宮と紫の上両方の若女房たちが、われ劣らじとぜい を尽くした衣裳や容貌が、花々をこきまぜて織り上げた¥錦にも劣らないくらい美しく見渡されます。耳なれない世にも珍しい音楽の数々も奏でられました。舞人なども源氏の君が特に念入りにお選びになり、見物なさる方々が御満足なさるよう、妙技の限りを尽くして舞わせてお見せになります。
夜になりましたがまだ飽き足りない気持がして、お庭先に篝火かがりびとも し、階段のもとの苔の上に楽人たちをお召しになります。
上達部や親王たちも皆それぞれ、そうこと琵琶びわ笙琶しょう篳篥ひちりき や横笛などをとりどりに演奏されました。師匠各の楽人のなかでもことに名人ばかりが春の調べの双調そうじょう を吹き立てると、御殿の上でこれを受けて合奏するお琴の音色も、たいそうはなやかに掻き立てて、催馬楽さいばら の 「安名尊あなとうと 」 を演奏なさる時には、この世に生まれた甲斐があったと、何のわきまえもない下人しもびと まで、御門のあたりにぎっしり立ち並んだ馬や牛車の間にまじって、満面を笑み崩して聞いていました。
空の気色も音楽の音色も、春の双調の調べや響きは、実にほかの調べより格段に優れているというその違いが、お集まりの人々にもよくお分かりになったことでしょう。
夜もすがら管絃のお遊びをして、お明しになりました。調子の変わる返り声になると、舞楽の 「喜春楽きしゅんらく 」 の演奏が加わって、兵部卿ひょうぶきょうみや が催馬楽の 「青柳あおやぎ 」 を幾度も繰り返し、お見事にお謡いになります。主人の源氏の君も、お声を添えて合唱なさいます。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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