〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/06/12 (日) 

初 音 (五)

こうした年賀の客の賑やかな馬や車の音も、築地ついじ や木立を隔てて御殿の奥深くで聞いていらっしゃる女君たちは、極楽浄土に生まれながら、まだ開かぬ蓮の花の中に閉じ込められている気持もこんなふうなのかしらと、もどかしいお気持でいらっしゃるようです。まして二条の東の院に、遠く離れてお住まいの方々は、歳月が経つにつれて、所在ない淋しさがつのるばかりですが、世の憂さから逃れた山里に籠ったつもりになって、薄情な源氏の君のお心を、どうのこうのとおとが めはしないのでした。源氏の君の訪れがないということ以外には、何の不安も淋しいことも全くありませんので、仏道に入った空蝉うつせみ の尼君は、仏道の修行以外のことには気を散らさず勤行ごんぎょう に励みますし、和歌の道の学問に御熱心な末摘花すえつむはなきみ は、お好きなようになさってお暮らしでいらっしゃいます。暮らし向きの経済的な面は、しっかりと源氏の君がお取り決めになり支えておあげになり、女君たちにはただ思うように住まわせていらっしゃいます。
新年の忙しい数日が過ぎてから、ようやく二条の東の院にお越しになりました。
末摘花の姫君は、何といっても御身分が御身分なので、お気の毒にお思いになって人目につく点は立派に見えるよう、充分丁重なお扱いをなさいます。昔はお見事と思われた若盛りの黒髪も、年とともに薄くなっていて、今ではその上に、滝の流れも恥じ入るほどの白髪になられた横顔などを、お可哀そうに思われてまともには御覧になれません。暮の贈り物のあの柳襲やなぎがさね 織物のうちき は、いかにも似合わなかったと思われますのも、お召しになったお方の人柄によるのでしょう。
つや もない黒っぽいぎぬ のさわさわと音をたてるほど強張こわば った一襲ひとかさね の上に、こうした織物の袿を召していらっしゃるのは、ひどく寒そうでおいたわしく見えます。下の襲の袿などはどうなさったのでしょう。お召しになっていらっしゃいません。
ただお鼻の色ばかりが、春霞にも隠れそうもなくはなやかに赤々としていますので、源氏の君はお気の毒とは思いながらもつい溜息をつかれて、ことさらに几帳を引き直して姫君のお顔が見えないように隔てをなさいます。かえって末摘花の君の方はそれほどにもお思いにならず、今ではいつまでもこのようにおやさしく変わらないお心に安心しきって、心からお気を許し頼りにいていらっしゃる御様子もお気の毒なのでした。御器量だけでなく、こうした日常の暮し向きの面でも、普通の御身分でないだけに、おいたわしく悲しいお身の上のお方だと源氏の君はお思いになりますので、せめて自分だけでもと、お心にかけてお世話なさいますのもめったにないおやさしいお心がけです。末摘花の君はお声までいかにも寒そうに震わせながらお話しなさいます、源氏の君は見かねて、
「お召物のことなど、お世話する人はございますか。ここは誰にも気がねのない気楽なお住まいなのですから、もっとくつろいだふうになさって、ふっくらと柔らかなものをお召しになるのがいいのです。うわべばかりをとりつくろったお衣裳はどうも感心しません」
とおっしゃいますと、末摘花の君は固苦しく、それでもさすがに少し微笑まれて、
醍醐寺だいごじ阿闍梨あじゃり の兄君のお世話にかまけてしまいまして、自分のものを縫うまでは手が回りかねました。皮衣までその人に取られてしまってからは、寒うございます」
とお話しになるその人とは、これも同じように鼻の赤い御兄君なのでした素直なのがかわいいとはいえ、これではあまりあけすけすぎるとお思いになりますけれど、さうあがにこの女君がお相手では、源氏の君もすっかり生真面目で固苦しい人物になっていらっしゃいます。
「皮衣はそれで結構ですよ。山伏のみの 代わりに阿闍梨にお譲りになってよかったでしょう。ところで、この惜し気もなくお召しになれる白絹の下着を、どうしてあなたは、七重にも八重にも重ねてお召しにならないのでしょう。お要り用の節には、わたしの方でうっかり忘れているような時でも、その度、おっしゃって下さい。わたしはもともとまぬけでにぶ い性分なので気が付かないのです。まして公私ともに色々な用事が次々出来てくるものですから、つい行き届かなくて」
とおっしゃって、向かい側の二条の院の蔵を開けさせて、絹や綾の織物をさし上げられました。東の院は荒れている所などはないのですが、源氏の君がお住みになりませんので、あたりはひっそりともの静かで、お庭先の木立ばかりがたいそう面白い風情を見せ、紅梅の咲きそめた色合いの美しさなどを、誰も観賞する人もいないのを、源氏の君は御覧になられて、

ふるさとの 春のこずえ に たづね来て 世の常ならぬ 花を見るかな
(昔暮らしていた家に 春の花木を見ようと 訪れてみれば この世の花とも思われぬ 珍しい鼻を見たことよ)
と独り言をおっしゃいましたけれど、末摘花の君は、歌の意味をお分かりにならなかったことでしょう。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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