〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/06/11 (土) 

初 音 (三)
玉鬘の姫君は、、まだたいして住み馴れてもいらっしゃらないわりには、お住まいの感じも趣味よく整えられ、可愛らしい女童の姿も優雅で女房たちも大勢揃って、お部屋の飾り付けも必要なものだけにして、こまごましたお手廻りの品などはまだ充分には揃えてはいらっしゃいません。それがそれなりにこざっぱりして、すがすがしく住みこなしていらっしゃいます。
姫君御本人も、いかにもお美しく、あの山吹襲やまぶきがさね のお召物に、一段と えていらっしゃる御器量も、たいそう華やかで欠点らしいものは何ひとつなく、全身くま なく光り輝いていらっしゃって、いつまでも見惚みと れていたいようなお姿なのでした。長い不運な歳月のご苦労のせいか、お髪のすそ の方がいくらか少なくなって、お召物の裾にはらはらとかかっているのが、かえっていかにもさわやかに見えます。全身すべて水際立って目のさめるようでいらっしゃるのを御覧になり、こうして自分が引き取ってお世話しなかったなら、とお思いになるにつけても、とてもこのまま娘分としてだけでは、お見過ごしになれないのではないでしょうか。
こんなふうに、何の隔てもなくいつも源氏の君とお逢いしているものの、やはり考えてみると、実の父君でもないので、玉鬘の君としては、どこか気のおけるところも多く、何となくしっくりしないものがあり、何か夢を見ているような感じがしますので、源氏の君に対して、心から打ち解けた態度はお見せになりません。それもまた源氏の君にとっては、興をそそられることなのでした。
「もう何年もこうして御一緒にいたような気がして、お目にかかっても気がねがありません。わたしは年来の望みがかな ってとても嬉しいのです。あなたも何の遠慮もなさらないで、紫の上のところにもお出かけなさい。あちらでは琴の手ほどきを受けている幼い姫もいますから、一緒にお稽古をなさるといいでしょう。あちらには気の許せない軽々しくおしゃべ りするような人などおりませんから」
と仰せになりますと、
「おっしゃる通りにいたしましょう」
とお答えになりま。いかにも適切なお返事でしょう。

日が暮れかけた頃、明石の君の御殿にいらっしゃいました。御殿に通じる渡り廊下の戸を押し開けるなり、お部屋の御簾の奥から、薫物たきもの の芳香が風に吹き送られて、優雅な匂いが漂い、どこよりもことのほか気韻高く感じられます。御本人のお姿は見えません。どちらにいらっしゃるのかと、あたりを見回して御覧になりますと、硯のまわりに賑やかに草子そうし などが取り散らかされています。それをお手に取って御覧になります。唐渡からわた りの薄い錦の、たいそう見事な縁どりをした敷物に、由緒ありげなきん を置き、特別あつらえて意匠を凝らした風流な火桶ひおけ に、侍従香じじゅうこう をくゆらして、あたりの物すべてに きしめてあるところへ、衣裳に薫きしめるえびこう の匂いがほのかにまじっているのが、言いようもなく優艶です。
手習いをしていた反古ほご などに無造作に乱れ書きに書きならしてあるのも、手筋はなかなかのもので、教養のしの ばれる書きぶりです。大袈裟に万葉仮名の草体をたくさん使ったりして物知りぶらず、しっとりと感じよく書いてあります。小松の歌の姫君の御返歌がよほど珍しく感じられたままに、あわれ深い古歌などをいろいろ書きまぜて、
めづらしや 花のねぐらに 木づたひて 谷の古巣を とへる鶯
(珍しくもこの嬉しさ 花のような御殿に 楽しく暮していながら 谷の古巣へ帰る鶯のように わたしの懐に訪れてくれた姫よ)
「やっと待ちかねた鶯の声が聞けて」
などとも書き添えてあります。また <梅の花咲ける岡辺に家しあれば> などという古歌もまじっているのは、気を取り直して自分を慰めているのでしょう。源氏の君はそれを取り上げて御覧になりながら、ほほ笑んでいらっしゃいます。そのお姿はこちらが恥ずかしくなるほどお美しいのです。
御自分も、筆をとって戯れ書きをしていらっしゃるところへ、明石の君がそっとにじり出て来られました。自分ではあくまでもうやうや しく慎ましい態度をとり、いつも礼儀正しいので、やはり、ほかの女君とは違うと、源氏の君はお思いになります。暮の贈り物のあの白い小袿こうちき に、鮮やかに映える黒髪のかかっているのが、はらはらとさわやかに薄く見えるのも、かえってしっとりとした優美さがいそう加わって、お心がひかれなすので、新年早々、紫の上に嫉妬され騒がれるだろうと、気がひけながらも、その夜はこちらにお泊まりになられました。
やはり明石の君への御寵愛は格別だったのだと、女君たちは油断出来ないとお思いになります。紫の上の南の御殿では、なおさらのこと、心外に思う女房たちがいます。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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