こうして逃げてしまったことが、自然に人の口から伝わっていきますと、大夫の監が負けじとばかり必ず追いかけてくるだろうと思われ、気が気でなく、とにかく早船という艫
の多い特別仕立ての船を用意してありました。その上、丁度望む方向に追い風まで吹いて来ましたので、危ないほどの速力で、一路都の方をさして駆け上りました。 難所として名高い響ひびき
の播磨灘はりまなだ も、事無く過ぎました。 「あれは海賊の船ではないだろうか。小さな船が飛ぶように来る」 などと言う者があります。海賊の向こう見ずな乱暴者よりも、あの恐ろしい鬼のような大夫の監が追って来たのではないかと思うと、恐ろしくて居ても立ってもいられません。 |
憂きことに
胸のみ騒ぐ 響きには 響きの灘も さはらざりけり (つらい思いに ただ胸ばかり騒ぐ この不安の高鳴りに比べたら 響灘ひびきなだ
のひびきなぞ 何の怖れがあるものか) |
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「摂津の川尻かわじり
という所に近づいた」 という船人の声に、少し生き返った気分がします。 あの船子たちが、 <唐泊からどまり
より川尻押すほどは> と船歌を歌う声が荒くれて風情がないのも、今は心にしみて聞かれます。豊後の介も、しみじみと胸に響くような調子で歌いつき、 「ほんにいとしい妻子も忘れた」 と口ずさみながら、 「考えてみれば、この歌のように何とすべてを打ち捨てて来たことか、今頃は妻や子はどうなってしまったことだろう。しっかり者で役に立ちそうな家来どもは、皆連れて来てしまった。大夫の監が自分を憎んで、残してきた家族たちを追い散らして、どんなひどい目にあわせているこtか」 と思うと、大人気なくも妻子を捨てて国を出て来てしまったものだと、少し心が落ち着いてくるにつれ、色々なことを考えつづけますと、弱気になって泣けてきます。思わず、 <胡こ
の地の妻児せいじ をば 虚むな
しく棄す て損す
てつ> と、白氏文集はくしもんじゅう
の詩の片はしを口ずさむのを、妹の兵部の君も耳にして、 「本当に何ということをしてしまったのだろう。長年連れ添ってきた夫の心を突然裏切って、逃げて出て来たのを、あの人は今頃どう思っていることか」 と、あれこれ思いつづけずにはいられません。 「これから帰っていく京にしても、どこそこと落ち着くことのできる住居すまい
があるわけでもなし、知り合いだといって、身を寄せて頼りに出来る人も思い当たらない。ただ姫君お一人の為に、これまでの長い年月住み馴れたとちを離れて、あておもない波風に漂い流されて、何をどう思案してよいやら分からない。この姫君だって、一体どうしてさし上げようというのだろう」 と、ただ呆然とするばかりですが、今更どうしようもなくて、急いで京に入りました。 |