乳母は人心地もなく上の空なので、とても返歌どころではありません。娘たちに詠ませようとしますが、 「わたしたちはなおさら恐ろしくも気も遠くなりかけていて」 と娘たちは座り込んだままでいます。時も経つばかりなので困ったあげく、乳母は心に浮んだままに、 |
年を経て
祈る心の たがひなば 鏡の神を つらしとや見む (長い年月 祈りつづけた姫君の 幸せがもし違うなら 鏡の神を無慈悲な神と
恨むでしょう) |
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と震え声で詠み返したのを、大夫の監は、 「待て待て、これは何とおっしゃる」 と、急に詰め寄ってくる気配に怯
えて、乳母は顔色も失ってしまいました。娘たちは、さすがに気丈に笑ってみせて、 「姫君が普通のお体ではないので、この御縁談がこわれたら辛くお思いになるだろうという気持を、何分耄碌もうろく
しておりますので、鏡の神を引き合いに出したりして詠みそこねたのでございましょうよ」 と説明します。 「おお、そうか、そうか」 と監はうなずいて、 「しゃれた詠みぶりでいらっしゃるな。拙者など、田舎者と言われておろうが、わけのわからぬ土民でもござらぬて。都の人と言うても何ほどのことがあろうぞ。何ごともよく心得ておりますわい。あまり馬鹿になさらぬがよかろう」 と言って、またもう一つ詠もうとしますけれど、うまく歌が出てこなかったのでしょう、そのまま帰っていきました。 次男が監の味方に引き込まれたことが、乳母は恐ろしくて心配で、長安の豊後の介を急きたてますので、 「いったいどういうふうにしてさし上げたらいいのだろうか。相談して力になってくれる人もいない。数少ない弟たちは自分が監に味方しないというので仲違なかたが
いしてしまった。この監に睨にら
まれては、ちょっとした身動きさえままならぬことだろう。下手に動いて上洛などすれば、かえってひどい目にあわされるに違いない」 と、思案に暮れています。姫君が人知れず嘆いていらっしゃる様子がとてもお気の毒で、監の妻になるくらいなら、いっそ死んでしまいたいと沈み込んでいらっしゃるのも、もっともなことと思われますので、思い切った旅の計画を立てて京へ出発します。妹も長年連れ添った夫を捨てて、姫君のお供に旅立ちます。前はあてきと呼ばれていた妹で、今は兵部ひょうぶ
の君きみ といわれている者が、姫君に従って、夜逃げ出して船に乗り込みました。 大夫の監は肥後に帰って行き、四月二十日のあたりに、吉日を選んで姫君を迎えに来ようとしているので、こうして急いで逃げ出すのでした。 姉妹の方は、家族が多くなっているので、家を出ることはとても出来ません。姉妹は互いに別れを惜しみました。これからは逢うことも難しいだろうと思いながらも、妹は長の年月住み馴れた土地とはいえ、格別未練とは感じません。ただ、松浦の宮の前の渚の景色と、この姉と別れることばかりが、後ろ髪を引かれる思いで、振り返らずにはいられなくて、悲しくてならないのでした。
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浮島を
漕ぎ離れても 行くかたや いづくとまりと 知らずもあるかな (由来ことのみ多い島を逃れて 漕ぎ離れてはみたものの 行方も知らぬ波路に
風まかせの船出して これからどうなるこの身やら) |
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と兵部の君が詠みますと、姫君は |
行く先も
見えぬ波路なみぢ に 船出して 風にまかする
身こそ浮きられ (行方も知れぬ遠い波路に 今心細く船出して 風にまかせて さすらうこの身の はかなさよ) |
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と言われ、ほんとうに先行き不安でたまらなくて、船に中にうち伏していらっしゃいます。 |