〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/05/23 (月) 

乙 女 (十三)
灯りがともされた頃、内大臣が宮中から退出していらっしゃったようで、物々しい大声をあげて、先払いする前駆の声に、
「そらそら、お帰りだわ」
と、女房たちがびくびくして騒ぎますので、姫君はほんとうに恐ろしくなって震えていらっしゃいます。
若君の方は、内大臣に見咎められてどうせ騒がれるなら、騒がれたって構うものか、どうともなれと一途に思いつめて、姫君をお放しになりません。姫君の乳母が姫君をお探しするうちにやって来て、この様子を見つけて、
「まあ、いやなこと、たしかに内大臣さまのおっしゃる通り、大宮が御存じない筈はなかったのだわ」
と思うと、たいそう口惜しく思って、
「全く、これだから厭になってしまいますよ。内大臣さまのお腹立ちやお叱言こごと は言うまでもないこととして、按察使の大納言さまも、お聞きになって何とお思いになりますことか。どんなに御立派なお方にしろ、せっかくの御結婚のお相手が六位風情ではねえ」
と、ぶつくさ言う声もかすかに聞こえて来ます。お二人のいらっしゃる屏風びょうぶ のすぐ後ろまで探しに来て、愚痴をこぼしているのでした。
若君は、自分の位が低いから馬鹿にしているのだとお思いになりますと、世間も恨めしく、姫君への恋心もすこしさめる気持がして、この乳母を許せないと思います。
「あれをお聞きなさい、
くれなゐの 涙に深き 袖の色 あさみどりとや 言ひしをるべき
(あなたに恋いこがれて流す 血の涙に染まった真紅の袖を 六位風情の浅緑の袖よと あざけり辱て よいものだろうか)
ああ、恥ずかしい」
とおっしゃいます。姫君は、
いろいろに 身の憂きほどの 知らるるは いかに染めける 中の衣ぞ
(いろいろとわが身の不運 思い知らされ 何というつらい定めの 二人の仲かと 悲しくてなりません)
と、お答えもし終わらないうちに、内大臣が邸内にお入りになりましたので、どうしようもなくて、姫君はお部屋に戻って行かれました。
若君は、あとに取り残されたことが、人の手前ひどくみっともなく思われて、胸もつまるようで、御自分のお部屋で横になってしまわれました。内大臣のお車が三輛ばかり連ねて、前駆の声のもひっそりと、急いでお出になっていかれる気配を聞いても、気もそぞろに落ち着きませんので、大宮のところから、
「こちらへいらっしゃい」
と、お呼びがありましたが、寝ているふりをして身動きもなさいません。涙ばかりがとめどもなくzふれますので、悲しみながら夜一夜明かして、霜の真っ白な早朝に、急いでお出かけになります。
泣き らした目もとを女房に見られるのも恥ずかしい上に、大宮はまたお呼びになってお側からお離しなさらないだろうから、気のおけないところへと、急いでお出になるのでした。
その道々も、これは人のせいでhなく、我から求めた苦しみなのだと、心細く思い続けていますと、空模様もひどく曇ってきて、あたりはまだ暗いのでした。

霜氷 うたてむすべる 明けぐれの 空かきくらし 降る涙かな
(わびしく てた朝霜よ氷よ まだほの暗く明けきらぬ あかつきの空曇らせて せつなく悲しいわが憂い 涙の雨と降りそそぐ)

源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next