〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/05/13 (金) 

朝 顔 (六)
「この典侍が宮中で働き盛りの頃に、後宮で君寵を争っていられた女御、更衣の方々の右うち、ある方は亡くなられてしまい、また生き甲斐もないほど情けない境遇に落魄らくはく していらっしゃる方もあるようだ。それにしても、あの藤壺の尼宮などは何とお若くお亡くなりになられたことか。はかない無常の世の中に、年からいえば余命いくばくもなさそうで、性質なども浅はかに見えたこの典侍が生き残り、心静かに仏道のお勤行つとめ などしてこれまで過ごして来たというのは、やはり、何事も定めのない世の中なのだ」
とお思いになられて、しみじみ感慨にふけっていらっしゃいますと、源の典侍は勘違いして、自分のことを思って下さっているのかと、胸のときめく思いで、気もそぞろに若やいでいます。
れど この契りこそ 忘られね 親の親とか 言ひし一言ひとこと
(年経ても 君との契り 忘らしょか お祖母上ばばうえ 様との 君の一言)
と典侍が申し上げますと、源氏の君は嫌でぞっとなさって、

身をかへて のちも待ち見よ この世にて 親を忘るる ためえしありやと
(生まれ変わって あの世にいっても 待って見ていてごらんよ この世で親を忘れる 子などいるかいないか)

「末頼もしい契りですよ。そのうちゆっくりお話ししましょう」
と仰せになって、お立ちになりました。
西面にしおもて の朝顔の姫君のお部屋では御格子みこうし を下ろしましたけれど、源氏の君のお越しになるのを迷惑がっているように見えるのもいかがかと思って、一、二枚ほどは格子をあげたままにしてあります。
月がさい上がり、うっすらと積もっている雪が月光に映えて、春秋よりかえって風情のある夜の景色です。さっきの老女の年甲斐もない独り懸想けそう も、世にも興ざめなもののたと えとしてひかれていたのに、と思い出されて、今夜はたいそう真面目な調子で、
「せめて一言でも、気に入らないと御自身でおっしゃって下さいましたなら、それをあきらめるよすがにうたしますのに」
と、熱心におせがみになります。
「昔、お互いにまだ若くて、少しぐらいの過ちは世間から大目にも見てもらえた頃にも、またその上、亡き父宮が源氏の君との結婚を期待していられたのにもかかわらず、わたしはしんなことはもってのほかのことと恥ずかしく思って、その話しも立ち消えになったのに、女盛りも過ぎ、結婚などおよそ不似合いな年頃になった今更、一声なりとも自分の声をお聞かせするのは気恥ずかしくてたならないだろう」
と思われて、一向に姫宮のお気持はゆらぎもなさいません。源氏の君は、なんというひどいお方かとお恨みになるのでした。
それでも、立つ瀬のないほど恥をかかせて、突き放すという態度でもなく、女房に取り次がせて一応のお返事はなさるので、かえって源氏の君は苛々いらいら なさるのでした。
夜もたいそう けてゆき、風がはげ しく吹きつのり、ほんとうに心細く感じられるので、源氏の君は優雅な感じで涙をこっそり拭われて、

つれ なさを 昔にこりぬ 心こそ 人のつらきに 添へてつられけれ
(昔に変わらぬ情なさに あきらめきれず恋いこがれ 今なお懲りぬこの心 恨む切なさいや増せば わが心こそなお辛く)
「これも自分の心のせいなのですけれど」
と、言いつのられるのを、
「ほんとうにごもっともです。あんまりお気の毒で、気がもめますわ」
と、女房たちが例によって申し上げます。
あらためて 何か見えむ 人のうへに かかりと聞きし 心がはりを
(今更にどうして 心を変えられよう はじめは拒んでも 心変わりしてなびくような 女のまねは耐えられぬ)
「昔の心を変えるなど、わたしは馴れておりませんので」
と、お答えになるばかりでした。
源氏の君は、どうしようもなくて、さんざん恨み言をおっしゃってお立ちになるのも、いかにも大人気ない気がなさいますので、
「全く、世間の物笑いになりそうなこのわたしの醜態を、ゆめゆめ人には漏らさないで下さい。 <いさら川いさと答へてわが名漏らすな> という歌の例をひいてお願いするのも厚かましい話ですが、あの場合は二人が契った後の歌ですからね」
とおっしゃって、まだしきりに宣旨にひそひそとささや きかけていらっしゃるのは、何のお話しなのでしょう。女房たちも、
「まあ、ほんとうに勿体もったい ない。どうして姫宮はこうもむきになってじょう のないお仕打ちをなさるのでしょう。源氏の君は決して軽々しく無体なことをなさる御様子はお見えにならないのに、あんまり気の毒で」
と言っています。たしかに女房たちの言う通り、お人柄のすばらしいことも、しみじみ慕わしいお方でいらっしゃることも、姫宮にはおわかりにならないわけではないのですけれど、
「そのお心の内をわかっているような様子をお目にかけたところで、それを世間の多くの女たちが、源氏の君をむやみにほめ称えているのと同列に、源氏の君に思われるのはいやだし、またこちらの浅はかな心の底もすっかりお見通しになってしまわれるだろう。何につけてもこちらが恥ずかしくなるような御立派なお方なのだから」
とお考えになり、
「この上お慕いしているようなやさしい態度をお見せしたところでどうしようもない。これからも当たり障りのないお返事などは、適当にさしあげて、女房などを通してのお返事なども失礼にならぬよう気をつけて、さりげなくお付き合いしてゆこう。これからは、長年斎院として神に仕え、仏道から遠ざかっていた罪滅ぼしに、お勤行つとめ にも精を出さなくては」
と思い立たれます。それでも急に源氏の君とのこうしたお付き合いを、打ち切るように振舞うのも、かって思わせ振りと見られもして、人の噂に上るに違いないと、世間の人の口さがなさを知り尽くしていらっしゃいます。お側にお仕えする女房にも気をお許しにならず、ずいぶん気をお遣いになりながら、次第にお勤行つとめ 一途にお励みになるのでした。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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