〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/05/10 (火) 

朝 顔 (二)

あちらの朝顔の姫宮のいらっしゃるお庭の方を気がかりなように御覧になりますと、前庭の草花の枯れ枯れになった風情が趣深く見渡されて、お心静かにそれを眺め物思いにふけっていらっしゃるだろう姫宮の御様子やお顔までも、たいそうゆかゆかしくしのばれてしみじみといとしく、逢いらさのお気持がそそられ、源氏の君はこらえかねるのでした。
「こうしてお訪ねした機会をのがしましては、わたしにじょう がないようですから、姫宮へのお見舞も申し上げなくてはなりません」
と、そのまま濡れ縁づたいに朝顔の姫宮の方へお越しになりました。
夕闇にあたりは薄暗くなりかけた頃でしたが、裳の鈍色にびいろ の縁どりの御簾みす に、やはり黒い几帳きちょう が透いて見えるのがしみじみもの悲しく、風が、たきしめた香の匂いを優艶に吹き寄せて来るのまで、申し分のない奥ゆかしい風情でした。濡れ縁では畏れ多いので、南のひさし の間に源氏の君をお入れ申し上げます。女房の宣旨せんじ がお目にかかって、お取り次ぎをいたします。
「今更御簾ごしとは若い者にするようなよそよそしいお扱いですね。昔から長い年月、ずいぶん心のたけを尽くしつづけて来ました。その苦労をお認め下されば、今はもうお部屋への出入りもお許しくださるものと、あてにしておりましたのに」
とおっしゃって、もの足りない御様子です。
「父の在世中のことはみな夢の中のこととしまして、その夢から覚めた今は、かえってはかない心持がするのでしょうか。何ごともしかkり思い決めかねていますので、今おっしゃったお心尽くしの御苦労のことなどは、後からゆっくりと考えさせていただきましょう」
と、宣旨を通してお答えになります。たしかに世の中ははかなく無常なものだと、源氏の君は何気ない姫宮のお言葉につけても、思いつづけずにはいられません。

人知れず 神のゆるしを 待ちし に ここらつれなき 世を過ぐすかな
(神のお許しを得て あなたが自由に身になる日を ひそかに待ちつづけていた間 こんなにも長いつれないお扱いに 耐えつづけてきましたのに)
「これからは、どんな神のいまし めを口実に、わたしを拒もうとなさるのでしょう。わたしもああした世の中が何もかもいやになるような事件もありまして以来は、ほんとうに様々な辛い思いを味わい尽くしてきました。その片端なりとどうかお聞きいただきたくて」
と、強いて申し上げる御態度なども、昔より少し、しっとりとした優美さまで加わっていらっしゃいます。それも、今では実際お年も相当な筈なのに、内大臣という高い御身分にふさわしくないほどの、若々しさでいらっしゃるからのようです。
なべて世の あはればかりを とふからに 誓ひしことと 神やいさめむ
(ただ一通りの世間並みの おつきあいをするだけでも 一度神に仕えた身には 誓いにそむくものと おとが めをこうむるでしょう)
とお返事がありましたので、源氏の君は、
「なんとまたお情けない。あの頃の罪などは、風にまかせてすっかりはら ってしまいましたのに」
とおっしゃる御様子もまた、この上なく愛嬌がこぼれるばかりです。
「 <恋せじ> とみそぎ をしても、神は受けて下さらないと、古歌にもございますよ。その禊も神はどう御覧になりましたことやら」
などと、たわいにないことを宣旨が申し上げるのにも、姫宮はきまりが悪く当惑なさるばかりでした。
もともと色恋にうとい姫宮の御性質は、歳月を経ても、慎み深く控え目になさるばかりで、お返事もお出来にならないのを、女房たちはお側で見てやきもきしています。
「お見舞のつもりが色めいたお話しになってしまって」
と、源氏の君は深いため息を洩らして座をお立ちになりました。
「年をとりますと、面目ない目に遭うものですね。せめて、世に類ない恋にやつれたこのなれの果ての姿だけでも、今、通り過ぎて行くかと、御覧になっていただきたいのに、ひどく素っ気ないお扱いを受けまして」
とおっしゃって、お立ち去りになります。
後では女房たちが、例によって仰々しいほどおほめして、お噂で持ちきりです。
いったいに空の色あいも美しい頃で、はらはら散りかかる木の葉のかすかな音につけても、姫宮は過ぎ去った日々のあわれ深い源氏の君との思い出をよみがえらせながら、その折々につけて、情緒深くも、しみじみとあわれにも、いつも並々でない深い愛情を感じさせられた源氏の君のお気持などを、思い出していらっしゃるのでした。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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