〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/05/08 (日) 

薄 雲 (十四)
「家門の繁栄の望みなどはさておいて、一年の間に移り変わっていく四季折々の花や紅葉、または空の風情につけても、心から楽しみたいものです。春の花の林、秋の野の盛りの優劣を、世間の人はさまざまに言い争っていますが、さてそのどちらの季節がよいと、はっきり味方したくなるような決定的な判定はなかったようです。唐土では、春の花の錦に越すものはないと言っているようですし、わが国の和歌では、秋の情趣を取りたててほめています。そのどちらも季節毎に見ていますと、美しさに目移りがして、花の色も鳥の声もとてもその優劣を決めかねます。狭いわたしの邸の内でも、春秋折々の庭の風情が味わえるようにと、春の花の木もたくさん植えたり、秋草を野から移し植えて、聞く人もない野辺の虫なども放し飼いにして、どなたにも御覧いただきたいと思うのですが、あなたは春と秋とどちらを御ひいきになられますか」
と申し上げます。女御はとてもお答えしにくいこととお思いでしたけれど、全くお返事をなさらないのも具合が悪いので、
「あなたにさ決められないことを、このわたしにどして決められましょう。ほんとうにどちらがいいとも申せませんけれど、<秋のゆふべ はあやしかりけり> と古歌にも詠まれた秋の夕暮こそ、はかなくお亡くなりになられた母上のゆかりにもなるかと思われまして」
と、とりとめもないように言い紛らわしておしまいになる御様子が、何とも可憐なのでした。源氏の君は恋心を抑えかねて、
君もさは あはれをかはせ 人知れず わが身にしむる 秋の夕風
(秋の夕が好きとおっしゃるなら わたしの恋いをあわれと思ってほしい 人知れず思いこがれ 秋に夕風の切なく 身にしむ淋しいこのわたしを)

「お慕いする気持の耐え難い折々もあるのです」
と申し上げますのに、女御は何とお返事のしようがありましょう。おっしゃることがよくわからないというふりをなさいます。
このついでに、源氏の君はお胸の思いをこらえかねて、いろいろと切ない怨み言を訴えられもなさったことでしょう。もう一歩踏み込んで困ったこともなさりそうなところでしたが、女御がそんな源氏の君をたいそう厭わしくお思いなのも、もっともですし、源氏の君御自身のお心にも年甲斐もなく しからぬことと反省なさって、溜め息をついていらっしゃいます。その御様子が奥ゆかしく優雅にお見えるになるのさえ、女御にはかえって疎ましくお感じになられます。少しずつそっと奥の方へお引きとりになった御気配なので、源氏の君は、
{情けないまでにすっかりわたしをお嫌いになられたものですね。ほんとうに思慮の深い方は、そんな冷たい態度はなさらないものですよ。まあいいでしょう。でもこれからはお憎みにならないで下さい。でないとどんなにか辛いことでしょう」
とおっしゃって、お帰りになりました。
そのあとにしっとりした源氏の君の薫物たきもの の匂いが残っているのまでも、女御はおぞましくお思いになります。女房たちは御格子などもおろして、
「このお敷物の移り香の、何とも言いようがないこと。どうしてこうも何から何まで揃っていらっしゃるのかしら」
「柳の枝に梅や桜の花を咲かせたようなお方というのは、こういうお方なんですね。ほんとうに空恐ろしいような」
と、お噂しあっています。

源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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