〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/05/08 (日) 

薄 雲 (十三)

前斎宮ぜんさいぐう女御にょうご は、源氏の君がかねて予想なさった通り、帝のよいお り役におなりになり、帝にも第一のお気に入りでいらっしゃいます。すべてにおたしな みが深くお人柄なども理想的でいらっしゃいますので、源氏の君はこうしたお方はまたとはいらっしゃらないと、大切にお世話申し上げます。
秋の頃、女御が二条の院にお里下がりなさいました。お部屋に当てられた寝殿のお飾り付けも光り輝くように立派になさって、源氏の君は今ではむやみに親代わりのような態度でお世話申し上げていらっしゃいます。
秋雨がしとしと静かに降り、お庭先の秋草が色とりどりに咲き乱れ、秋の露にしとど濡れているのを御覧になって、源氏の君は過ぎ去った昔の六条の御息所みやすどころ とのことが次から次へと思い出されて、お袖も涙に濡らしながら、女御のお部屋の方にいらっしゃいました。
濃い鈍色の御直衣おんのうし を喪服としてお召しになって、世間の不穏なことなどを口実になさり、実は藤壺の宮の御崩御以来、そのまま引きつづいて御精進をしていらっしゃいます。お数珠じゅず を袖口にそっとかくして、体裁よくふるまっていらっしゃるお姿が、この上もなく優美な御様子で、そのまま御簾みす の中へお入りになりました。御几帳だけを隔てて、女御はお取り次ぎなしで御自身で対応なさいます。君は、
「前庭の秋草も、すっかり咲き揃いましたね。ほんとうに今年は、何かにつけぞっとするような厭な年なのに、秋草だけは晴れ晴れと時を得顔に咲いているのも、情趣のふかいものですね」
と、おっしゃって、柱にもたれて坐っていらっしゃるお姿が、差し込む夕陽のほの明りに映えてお美しく匂い立ちます。昔の六条の御息所との色々な思い出話も出て、中にはあの野の宮を訪ねて名残を惜しみ、立ち去りかねた夜明けのことなども、お話しになりながら、深い感慨にとらわれていらっしゃる御表情です。
女御も昔を偲び亡き母君を思い出されるのでしょうか、少しお泣きになる気配がいかにもいじらしく、ほのかに身じろぎなさいますのも、おどろ くばかりすばらしくて、嫋嫋じょうじょう といかにも優美に感じられます。まだ直接お顔も拝見したことのないのが残念だと、胸のときめかっるのも困ったお心です。
「これまで、格別思い悩むようなこともなく過ごそうと思えばそう出来た頃にも、やはり色恋沙汰だけは自分から苦労を求めて、物思いの絶えたこともございませんでした。無理な恋をして、相手を気の毒な目にあわせたことも数々ございましたなかにも、とうとう最後まで心のわだかまりが解けず、お互い胸の晴れぬまま終ったつらい恋が二つありました。まずその一つは、お亡くなりになった母君のことなのです。わたしの不実をひどく思いつめてお恨みになられたまま、お亡くなりになってしまわれたのです。それこそ生涯忘れられない痛恨事と胸にこたえておりましたが、こうして御娘のあなたさまにお仕えし、親しくしていただけますことを、せめてもの慰めとつとめて思ってみますが、わたしに対する母君のお恨みがついに解けないまま妄執を断ち切れず亡くなられたことが、気がかりでやはり心が晴れません」
とおっしゃって、もう一つについては言いさしたままお話しになりませんでした。
「人生の半ばで、わたしが見る影もなく落ちぶれておりました時に、いつか帰京の暁には、ああもしたいこうもしたいと考えていたことは、今では少しずつかな えられました。東の院にいる花散里の君は、以前は頼りない身の上なのでいつも心配に思っていましたが、今ではすっかり安心出来るようになりました。気立てのよいところなどをお互いに理解しあっておりますので、実にさっぱりとした間柄なのです。その後こうして再び京に帰り、政治の御後見をさせていただく喜びなどは、さほど有り難いとも感じません。ただ今でもこうした色恋のむきのことだけは、いつまでも心が抑えられない性分なのです。あなたの御後見をいたしますのも、並々ではなく自分の切ない思いを押さえ込んでいることを、おわかり下さっているでしょうか。せめて可哀そうにとでもおっしゃっていただかなくては、どんなに張り合いのないことでしょう」
とおっしゃいます。
女御は困りきってどう答えてよいかわからず、黙り込んでいらっしゃいますので、
「やはりわたしをお嫌いだったのですね。ああ情けない」
とだけつぶやかれ、ほこのことに話しをそらせておしまいになりました。
「今はもう、何とか心おだやかに、生きている限り、この世に執着を残さず、後世ごせ のための勤行も思う存分して、山寺などに籠って暮したいと思います。それでも今生の思い出になるような晴れがましいことが何一つないのが、さすがに残念です。まだ人数ひとかず にも入らないような幼い娘がおりますが、成人する日が待ち遠しくてなりません。畏れ多いことですが、あなたのお力でどうか源氏の一族を繁栄させて下さって、わたしの死後も、あの娘を一人前にお扱い下さいますように」
などと申し上げます。
女御は、たいそう鷹揚おうよう な感じで、ようやく一言ぐらいかすかにおっしゃる御様子がほんとうに心をひきつけられるようなおやさしさなので、源氏の君は聞き惚れて、しんみりとした気分で日の暮れるまでいらっしゃいました。

源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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