その頃太政大臣がお亡くなりになりました。世の重鎮でいらっしゃったお方なので、帝もたいそうお嘆きあそばします。しばらく政界から引退していらっしゃった間でさえ、天下は大騒ぎしたほどなので、まして今度は悲嘆にくれる人々が多いのでした。 源氏の君も、たいそう残念で、これまでは政治の一切のことを太政大臣に撒かせ切っていたからこそ、ゆっくりお休みにもなられたものを、これからが心細くもあり、政務が忙しくなるだろうと、わずらわしくお思いになって、お嘆きになっていらっしゃいます。 帝はお年よりはたいそう大人びて御成長あそばされ、御政治向きのことなども、御心配申し上げるまでもないのですけれど。源氏の君のほかはとりたててご意見申し上げる人もないので、これからは誰に帝の御輔佐
の役を譲って、静かな出家の本懐を遂げられようかとお考えになると、太政大臣の死をこの上なく残念にお思いになるのでした。 太政大臣の追善の御法要なども、御子息やお孫たちにも増して、心を込めて御弔問になり、何くれと丁重にお世話なさったのでした。 その年は一体に世の中に変事が多くて、朝廷においても神仏のお告げがしきりにあり、物騒な上に、天にもイジョウな怪しい月や日や星の光が見えたり、雲のたたずまいまで無気味で、世間の人々の驚くことばかりが多いのです。 陰陽道おんみょうどう
や天文道、暦れき の博士はかせ
たちが、吉凶を占って奉る奏上文の中にも、奇怪な、世にめったにないような凶兆が様々あげられました。それについて、内大臣の源氏の君だけは、お心のうちに気づかわしく思い当たることがおなりなのでした。
藤壺の后の尼宮が、正月のはじめからずっと御病気でお苦しみでいらっしゃいましたが、三月にはたいそう重態におなりあそばしたので、三条の宮に帝のお見舞の行幸などがありましたが、帝が桐壺院の崩御にあそばしたころは、まだお小さくて、それほど深くお悲しみもお感じになれませんでしたけれど、この度は、たいそう御心痛の御様子なので、藤壺の尼宮も悲しさもひとしおにお感じになります。 「今年は必ず死を逃れられない年と分かっていましたけれど、そうひどい容態とも思えませんでしたので、寿命の尽きるのを悟っているような顔をいたしますのも、人々から、厭味いやみ
でわざとらしいと思われるかと遠慮されまして、後世ごせ
のための法会なども、とりたててことさらには常とちがうようにいたしませんでした。わたくしの方から参内して心静かにゆっくりと、昔の思い出話などを申し上げたいと思いながら、気分のすぐれた時も少のうございまして、残念にも、とうとう気の晴れぬ思いのまま、今日まで過ごしてしまいました」 と、いかにも弱々しく申し上げます。藤壺の尼宮は今年三十七歳の厄年におなりなのでした。そうはいってもまだ若々しく盛りのお美しさにお見受けされますのを、帝は惜しくも悲しくもお思いになられます。 「御用心あそばさなくてはならない厄年に当たっていらっしゃいました上、御気分もおすぐれにならないまま幾月もお過ごしでいらっしゃいましたので、それだけでもずっとお案じ申し上げておりましたのに、御精進や御祈祷ごきとう
なども、いつもより特別になさらなかったとは」 と、たいそう御心配になられるのでした。つい最近になってから、急にお気づきになって、さまざまな加持かじ
祈祷をおさせになります。 この月頃はいつものご病気とばかり思って、つい油断していたことを、源氏の君も深くお心を痛めていらっしゃいます。 行幸にはしきたりが定まっていますので、帝はほどなく御還幸かんこう
なさいましたが、それにつけても悲しいことが多いのでした。 藤壺の尼宮は、たいそうお苦しくて、はかばかしくはものも申し上げられません。お心のうちにお考え続けになりますと、前世からの貴い祝宴に恵まれ、この世での栄華も並ぶ人もなかったけれど、一方、心の内に秘めた満たされぬ思いに際限なく苦しんだことも、人にまさっていた身であったと、お悟りになられるのでした。 帝が夢の中にさえこうした事情を何も御存知でいらっしゃらないのを、さすがにおいたわしくお思いになって、この事だけが気がかりで死後もいるまでも晴れる事のない妄執となりそうな気持がなさるのでした。
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