源氏の君は、大堰の山里の明石の君の所在ない淋しいお暮らしも忘れず思いやっていらっしゃいます。正月の、公私につけて何かと忙しい時を過ぎてから、ようやく大堰にお出かけになります。いつもよりことに念入りに身じまいをなさって、桜襲
の御直衣のうし の下に、言いようもなくすばらしいお召物を重ね着なさり、それには香をよくたきしめてあります。紫の上にお出かけの御挨拶をなさるそのお姿が、隈なくさしこむ夕日に照らされて、いつもよりひときわ美しくお見えになります。紫の上はそんなおしゃれをした源氏の君を、おだやかではないお気持でお見送り申し上げます。 姫君は無邪気に御指貫さしぬき
の裾すそ にまつわり甘えて、後を追い御簾みす
の外までついて出てしまわれそうになります。源氏の君は足を止め、そんな姫君をたいそういとしくお思いになり、何かとなだめすかして、催馬楽さいばら
の一節の <明日帰りこむ> を口ずかみながらお出かけになります。 紫の上は渡り廊下の戸口に待ち受けていて、女房の中将の君にお歌を伝えさせます。 |
舟とむる
遠方人をちかたびと の なくはこそ 明日帰り来こ
む 夫せな と待ち見め (あなたを引き止める
あちたの方がいないなら 明日帰るあなたを うっかり信じて 待つかもしれないけれど) |
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たいそうもの慣れた口調で、中将の君が申し上げますと、源氏の君はいかにもはなやかにほほ笑まれて、 |
行きて見て
明日あす もさね来こ
む なかなかに 遠方人をちかたびと
は 心置くとも (行くだけ行って 明日はきっと帰ってきます かえってあちらに人が なまじ短い訪れに 気を悪くしようとも) |
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まだ何も分からないで、無邪気にはしゃぎ歩いていらっしゃる姫君を、紫の上は可愛くお思いになりますので、あの大堰にいる女君への嫉ねた
ましさも、すっかり許してあげていらっしゃいます。 「あちらではどんなに姫君のことを恋しがり案じていることだろう。わたしだって会えなくなったらどんなに悲しく思うかもしれない、こんなにも可愛らしい姫君を」 と、しげしげと姫君の顔を見つめながら懐に抱き上げて、可愛らしいお乳首ちち
をふくませたりして、お乳も出ないのにたわむれていらっしゃる御様子は、ほんとうにお美しく惚れ惚れいあたします。お側にお仕えしている女房たちは、 「どうしてかしらね、同じことなら」 「こちらにお生まれになれば」 「ほんとにもう、そうですとも」 など話し合っています。 |