〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/04/29 (金) 

薄 雲 (五)
大堰では、姫君が限りなく恋しくてなりません。それにつけても姫君を手放してしまった自分の迂闊うかつ さが悔やまれて悲しさが増すばかりでした。あの時、あんな御意見をしたものの、今となって尼君も淋しさにすっかり涙もろくなっています。
それでも姫君がこれほど大切に扱われていらっしゃると聞くのは嬉しくてなりません。
この上はこちらからなまじっかなどのような贈り物をさしあげられようかと、ただ姫君付きの女房たちに、乳母をはじめとして、世にも珍しい色合いの衣裳を、取り急いで用意してお贈りになったのでした。
源氏の君は、あまり訪れが間遠になっては、明石の君が、どんあに待ち遠しく思うだろう。やはり姫君を手放したせいで案の定だと、ますます恨めしく思うに違いないと不憫なので、その年の暮れにお忍びで大堰へお訪ねになりました。
それでなくてもひどく淋しいお住まいで、朝に夕に大切にお世話してきた姫君とさえお別れしてしまって、どんなに悲しんでいるだろうと思いやられると、源氏の君は心苦しいので、お手紙なども絶え間なくおやりになります。紫の上も、今では明石の君のことで、あまり恨み言をおっしゃいません。何事も可愛らしい姫君に免じて大目に見てさしあげるのでした。
新しい年になりました。うららかな初春の空も明るく、すべてに満ち足りた源氏の君のお姿はこの上もなくめでたく、二条の院はきれいに磨きあげられ、正月のため、調度などもすっかり改められたところに、参賀の人々が続々と集まって来ます。
年輩の方々は、七日にお出になります。この日は七草で叙位の日でもあるので、お礼とおよろこ びを申し上げる人々が、続々とつれ立って集まります。若い公達きんだち は、何の屈託もなく晴々と楽しそうな表情をしています。それより身分の低い人々も、内心には、何かと悩みを抱えているかもしれませんが、表面はさも得意そうに振舞っている正月なのでした。
東の院の対にお住まいの花散里はなちるさときみ も、お幸せそうな申し分のない有り様でいらっしゃいます。お仕えしている女房たちや女童なども、礼儀正しくしつ けて、気配りをなさりながらお暮しになっていらっしゃいます。何といっても近くに住み移られた効果は格別で、源氏の君もご気分のゆったりしたお暇な時などには、気軽に何気なくお顔をお見せになったりなさいます。といっても夜お泊まりになるために、わざわざお出かけになるようなことはありません。ただこの方の御性質はおっとりして子供っぽいところもあり、自分はこの程度の運勢に生まれついているのだろうと諦めていらっしゃいます。珍しいほど、気におけないのんびりしたお人柄なので、折にふれてのお暮し向きのお手当てなども、こちらの紫の上の御生活に見劣りするような差別はおつけにならない待遇をしていらっしゃいます。それでこのお方を誰も軽んじるようなことは出来ませんので、人々も紫の上と同様に参上しては御奉公しています。
事務を司る係りの者たちも勤めに精励して、かえって万事が整然と運ばれていて、乱雑な面などなく、見た目にも結構なご様子でした。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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