〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Z』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻四) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/04/28 (木) 

薄 雲 (二)
母尼君は思慮深い人でした。
「くよくよしたってつまらないでしょう。姫君にお目にかかれないことは、たしかに胸の痛むことでしょうけれど、わたしたちとしては結局、姫君のおてめによいように考えなければなりません。源氏の君だってまさかいい加減なお話をなさっているわけではないでしょう。こうなれば何も言わずすっかり御信頼しきって姫君をあちらにお渡し申し上げなさい。帝の御子でさえ、母方の素性次第で、御身分にそれぞれ相違ができるようです。この源氏の君にしても、世に二人とないすばらしいお方なのに、臣下の御身分なのは、母方の御祖父故大納言だいなごん が今一段地位がお高くなかったために、更衣腹こういばら まどと人から言われた弱味がおありになったのが原因だったのでしょう。源氏の君でさえそうなのだから、まして一般の臣下のわたしたちでは、はじめから比較にもなりません。また、たとえ御生母が親王や大臣の姫君でも、その方が北の方でなければ世間から軽く見られます。父君も平等にはお扱いになれないものなのです。ましてこの姫君は、あちらの御身分の高い方々に、同じようにお子がお生まれになったりすれば、すっかり気圧けお されておしまいになるでしょう。身分相応に、父親からも一応大切に可愛がられた子こそ、そのまま世間からも軽く見られない始まりになるのです。姫君の御袴着おんはかまぎ の式にしても、こちらでいくら一所懸命に力を入れたところで、こんな人目にもつかない山里のわび住いでは、何の見栄えがあるでしょう。何もかもすっかり源氏の君にお任せになって、姫君をどういう風にお扱いになるか、その御様子を見ていらっしゃい」
と言い聞かせます。
思慮深い人に判断してもらっても、また、陰陽師おんみょうじ に占わせてみても、どちらも、
「やはりあちらへいらっしゃった方が、姫君の御運勢がよくなるでしょう」
と言うばかりですから、明石の君もすっかり心がくじけてきました。
源氏の君も姫君を引き取ろうとは決めていらっしゃるものの、明石の君がどんなに悲しいだろと同情して、無理にもとはおっしゃりかねて、ただ、
「姫君の御袴着のことは、どうするつもりですか」
とお手紙をおやりになります。
「何事につけましても不甲斐ないわたしの手許に姫君をお引止めしていては、仰せの通り、姫君の将来もお可哀そうに思われます。けれどもまた、そしらの方々の中へ御一緒させていただきましても、どんなにもの笑いになりますことやら」
と御返事したのを源氏の君は御覧になり、いよいよ可哀そうにお思いになります。
姫君をお引取りになる日取りなどを占わせなさったり、ひそかにその日のための万端の支度などをお命じになります。
明石の君は、姫君をお手放しになることは、やはりとても悲しくてなりませんけれど、
「姫君のおためになることを何よりも考えなくては」
と、耐えています。乳母に向かって、
「あなたもこれで別れなくてはならないとは、これまで明け暮れの心の憂さも、手持ち無沙汰な淋しさもふたりでしみじみ話し合って慰めあってきたのに、これからは、姫君ばかりか、あなたまで奪われて、心細さがいっそう増してどんなに悲しいことでしょう」
と、明石の君は泣くのでした。乳母も、
これも前世からの御縁なのでしょうか。思いがけないことでお目にかかりお仕えしましてから長い年月、いつもおやさしくしていただきました。そのお心遣いは忘れられないので、さぞ恋しく思われることでしょう。よもやこのまま御縁が切れてしまうようなことはないと存じます。いつか最後にはまた御一緒になれるにちがいないと、心頼みにしております。けれどもしばらくの間だけでもお別れして思いもかけない所にまいりますことが、どんなに心苦しいことでございましょう」
と泣く泣く日々を過ごすうちに、早くも十二月になりました。
源氏物語 (巻四) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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