〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/03/31 (木) 

よもぎ   (一)
源氏が須磨、明石でわびしい流離の暮しをしていた頃、都では源氏の女君たちがそれぞれ悲しい思いをしていた。それでも紫の上などは、文通もあり、衣類など届けたりして。心は通わせていたので。わずかでも慰めはあった。ところが旅立ちも噂に聞いただけで、別れもしみじみしてもらえなかったような女君も少なくはなかった。
常陸ひたちみや の赤鼻の末摘花の君は、源氏からは忘れられて便りさえない。突然、降って湧いたように源氏との関係が生じてからは、それまでの長い零落の月日も忘れるほど、生活面の援助を得て、すっかりいい暮しをしてきたのに、源氏から全く忘れられ、援助の手配も、出発の前怠られてからは、三年の間に、末摘花の生活はもとの木阿弥になった。邸は荒れ放題になり、庭は軒まで生い茂ったむぐら でおおわれ、貧窮は底をついてきた。
影の薄い花散里はなちるさと でさえ、須磨時代、源氏は家司に命じて邸の修理をさせている。
一度いい目を味わったばかりに、女房たちはこの困窮に耐え切れず、末摘花の姫君を見限って、次々去って行った。中には老いて死んでゆく者もあり、三年の間に、すっかりその女房の数も減ってしまう。葎の邸には狐が棲みつき、ふくろう の声が昼間も不気味である。
そんな斜陽の家に目をつける不動産屋が現代にもいるように、貧しいが宮家という格式の構えに目をつけ、足許を見て、安く買い叩こうとする者まで現れる。地方で財を成した受領クラスの者たちなのだ。女房たちは、背に腹は替えられないと、姫君に邸を売って、小さな所に棲み替えようとすすめる。
末摘花は父宮の邸を売ったり出来ないと、全く聞き入れない。さすが由緒ある調度品もちり をかぶったままで、成り上がり者が目をつけ買い叩こうとする。せめてそれを売って生活の資にと、女房がいくら訴えても末摘花は頑として受け付けない。
女房の中に乳母子めのとご侍従じじゅう という女がいて、あまり貧しいので、末摘花の叔母の邸とかけ持ちで働いていた。この叔母は、自分から身分を落とし、受領の妻になり下がったことを卑下していて、末摘花の父宮や、亡き母から軽蔑されてまともな扱いをされなかったとひがみ恨んでいた。夫の受領が金廻りがよくなり経済的には裕福なので、自分の娘たちの侍女として、身分の高い末摘花を女房に召し抱えようと考え、侍従にその取り持ちを命じる。末摘花はそんなことに耳も貸さない。
源氏から見捨てられているのに、末摘花は心に深く源氏を信じきっていた。何かの都合で今は忘れられているけれど、必ず今に思い出してくれ訪ねてくれる、その時、邸や調度を売り払ったりしていては、合わせる顔がないと思い込んでいる。時たま訪ねてくる兄の禅師ぜんじ の君も、妹に輪をかけた世間知らずで、何の相談相手にもならない。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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