〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/04/19 (火) 

松 風 (四)
「この俗世を捨てる気になったはじめのころ、こんな見知らぬ田舎に下って来たのも、ただあなたのためを思い、ここなら思い通りに明け暮れつききりで御養育出来ようかと決心したことだったのに、その後、わが身の運がつたなかったことを思い知らされることが多かったのです。今更都に帰っても、うだつの上らぬもとの受領ずりょう の仲間入りをして、よもぎ や蓬におおわれた貧しい家の、荒れ果てたのを、修復することも出来ずに、公私につけて、人々から嘲笑され、愚か者の評判を広め、大臣にもなった親の御名をはずか しめることがたまらなく辛いので、ここへ都落ちしたことが、そのまま出家への門出になったのだと、人にも知られてしまいました。それでも出家したことについては、よくもきっぱり決心出来たものだと思いますが、あなたがしだいに成長なさって、分別のつく年頃になられるにつれて、どうしてこんなつまらない田舎に、せっかくの美しさを隠しておくのだろうと迷い、子を思う親心の闇が晴れる間もなく嘆きつづけておりました。神仏にもお頼み申し上げ、いくら何でも、こんなわたしの不運の巻き添えにされて、あなたが貧しいこの山の庵で、まさか一生を送られるわけはないだろうと思う気持だけを、たった一つの頼みにしてきたのです。
そこへ思いもかけないことがおこり、嬉しい出来事を次々に拝見するようになりました。そうなるとかえってわが身のつまらない身分の程が、あれやこれや悲しく思われて嘆き暮しておりました。そうした時、また、姫君の御誕生という深い御宿縁の頼もしさを見せられたのです。それにつけてもあなたや姫君が、こんな淋しい海辺で月日をお過ごしになるのははなはだ畏れ多く、姫君の前世からの御宿縁もただならず拝されますので、これからお目にかかれない辛さは静めようもありませんが、どうせわたし自身は、永久に世を捨てた覚悟でおります。あなた方がこの世を照らす輝かしい御運勢に恵まれているのは明白だったから、ほんのしばらく、こんな田舎者の心をかき乱すだけの因縁で、わたしと結ばれていたのでしょう。天上界に生まれる人が果報尽きて、いまわしい三悪道にいっとき帰されて、悲しい目にあうという大きな苦しみに思いなぞらえて、今日は永久のお別れを申し上げます。わたしがもし死んだという噂をお聞きになりましても、死後の法要などは行って下さらぬように。逃れられない親子の死別などにお心を乱して下さいますな」
と言い切ったものの、
「やがてこの身が火葬場の煙となる夕べまでは、姫君の御将来の御幸運を、六時の勤行の時にも、やはり未練がましく加えてお祈りことでしょう」
と言葉をつづけて、さすがに泣き顔になってしまいました。
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源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ