〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/04/18 (月) 

松 風 (二)
入道がこういう上洛の計画を思いついたことは、源氏の君は全く御存じありませんので、源氏の君は明石の君が上京を渋るのに、納得のいかないお気持です。
「幼い姫君があんな田舎に淋しくお暮しになるのを、後の世にまで人の噂に言い伝えられたら、母君の身分があまり高くないのに加えて、なおさら外聞の悪いことだろう」
とお考えになるのでした。そこへ入道が大堰の邸をすっかり仕上げて、
「こういう所領のあることを思い出しまして」
と、御報告したのでした。
源氏の君は明石の君が京の人々の中へ出るのを渋ってばかりいたのは、こういう心づもりだったのかと、はじめて、合点なさるのでした。なかなか行き届いた女君の気の配り方だと感心なさいます。
惟光これみつ朝臣あそん は例によって、お忍びの御用はいつでも必ずお世話をつとめる人なので、今度も大堰へお差し向けになって、源氏の通い所としてふあわしいようにいろいろの設備を適当におさせになりました。惟光は帰って来て、
「お邸のまわりはなかなか景色もよくて、あの明石の海辺を思わせるところでございます」
と報告しましたので、そういう住まいなら、明石の君にはきっとふさわしいかもしれないとお思いになります。
源氏の君が御造営なさった御堂は、大覚寺の南方に当たっていて、滝を見物する滝殿などは、大覚寺のに劣らない趣向のある、気持ちのいい明るいお寺でした。
大堰の邸の方は川に面した、言いようもないほど趣のある松蔭に、取り立てて数寄もこらさず建ててあります。その寝殿の簡素な作りも、いかにも山里らしいしっとりした味わいを見せています。室内の飾り付けなどまで、源氏の君は御自分の方で御配慮なさるのでした。
一方、腹心の家来たちを、ごく内密に明石までお迎えに派遣なさいました。
もうどう逃れようもなくて、いよいよ上京かと思うと、明石の君は長年住み馴れたこの浜辺を離れて行くのが名残惜しくなり、ちち入道を心細くここに一人残すことが心配で思い乱れ、何かにつけ悲しくてなりません。どうしてこうも悩みの尽きない身の上になってしまったのかと、源氏の君の事情を少しも受けない人をいっそ羨ましく思われます。
親たちも、こうした源氏の君からのお迎えをいただいて京に上る幸運は、何年も前から寝ても覚めても願いつづけてきた希望が、ついにかな えられたのだと、心から喜んではいるものの、これからお互い別れて暮す辛さがたまらなく悲しくて、夜も昼も心もうつろにぼんやりして、
「それではいよいよこれでもう、姫君とはお会いできなくなってしまうのか」
と、同じことばかり繰り返し言うよりほかはないのでした。
母君はとりわけせつない想いでした。
「これまで長いとしつき、入道とは同じ庵室にも住まず、浜の館と岡の家に別居して暮して来たのだもの。いつも岡の家で一緒に暮していた娘が上京する今となっては、まして誰を頼りにこの明石にとどまっていることがあるだろう。ほんのちょっとした浮気心で結ばれた男女の仲でさえ、すっかり馴染が重なった上で別れる時は、やはり一通りの悲しみではないだろうに、ましていかにも偏屈そうな坊主頭や考えは頼りにならない夫だけれど、それはなたそうした仲として連れ添い、この明石こそは自分一生のつい住処すみか なのだと、いつかは終るはかない命のある間だけは、夫と共に暮そうと思って来たのに、急に今別れて行くのも心細い」
と悲しみます。
若い女房たちで、田舎暮らしはつまらないといつもは憂鬱に沈んでいた者たちでさえ、上京できるのは嬉しいものの、なつかしく名残惜しいこの浜辺の景色を、、もう二度とは帰って見られないだろうと思って、打ち寄せては返す波を見るにつけても、自分の身の上に引き比べて涙に袖を濡らしがちになるのでした。
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源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ