〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/04/09 (土) 

蓬 生 (十)
姫君は、それにしてもいつかはきっといらっして下さると、待ち暮して来られた甲斐もあって、飛び立つ思いですけれど、こんなひどい、見しぼらしく恥ずかしい見なりでお逢いするのも、きまりが悪くてなりません。大弐の北の方がさしあげておいたお召物なども、嫌いな人のくれた因縁のある品物だからと見向きもなさらなかったのを、お側の女房たちが、香を入れる御唐櫃からびつ にに収めておきました。香の匂いがお召物にしみついてたいそうなつかしい薫りがしていますので、それをさし出しました。姫君はどうにも仕方なくお召替えになり、例の煤けた御几帳を引き寄せてお坐りになります。
源氏の君はお部屋にお入りになり、
「長年御無沙汰しておりましても、わたしの心はずっと変わらず、あなたのことをお案じ申し上げておりましたのに、そちらからは一向にお便りも下さらないのが恨めしくて、今までお心をためしてうたのです。あの、 <恋しくはとぶらひ来ませ> という三輪のしるしの杉ではありませんが、こちらのお邸の木立がありありと目につきましたので、素通りも出来かねて、とうとう根負けしてお訪ねしてしまいました」
とお話になり、御几帳の帷子かたびら をすこしかきのけてごらんになりますと、姫君は、例のひどく恥ずかしそうな御様子ですぐにはお返事をなさいません。それでも、こうまでして草深い露を分け入って下さったお心の深さに、姫君は心をふるいおこして、ようやくほのかなお声でお答えになるのでした。源氏の君は、
「このような草深いお邸に、長の年月ひっそりとお暮しになっていらっしゃったおいたわしさは、一通りではございません。またわたしは自分が心変わりの出来ない性分なものですから、わなたのお気持も確かめもしないまま、こうして涙の露に袖を濡らしながらお訪ねしたのです。そんなわたしの気持をどうお思いになりますか。長年の御無沙汰は、それはそれとして、どなたに対しても同じことでしたから、大目に見て許して下さいましょう。これから後、わたしがお心にそわないようなことをいいましたら。それこそお約束にそむいたという罪を負いましょう」
など、それほど深く思っていらっしゃらないことでも、さも情愛がこもったようにお上手にあれこれとお話になられたようです。
今夜ここにお泊まりになるとしても、荒れたお邸の様子をはじめとして、源氏の君がいかにもそこに似つかわしくないまぶしいほどに御立派な御様子なので、適当に言い逃れをなさって、お立ちになろうとなさいます。御自分がお植えになったのではないけれど、松が小高く育ってしまったのに、年月の長さもしのばれて感慨深く、夢のようなその間の浮き沈みのはげしかった、御自身のお身の上なども思いつづけられるのでした。
藤波の うち過ぎがたく 見えつるは 松こそ宿の しるしなりけれ
(松にまつわる藤の花が 美しくて通り過ぎがたく ふと足をとめたのは変わらずに わたしを待っていてくれた松に 見覚えがあったから)
「数えてみれば、何とまあお逢いしない歳月の長く過ぎたことでしょう。その間に都にも変わってしまったことがいろいろ多くて、あれもこれも心が痛むことばかりです。そのうち落ち着いたらゆっくり、田舎で落ちぶれていた頃の苦労話をなにもかもお聞かせいたしましょう。あなたもこれまでお過ごしになって来られた幾春秋のお暮らしの御苦労なども、わたしのほかに誰にお訴えになる人があるだろうかと、心の底から何の疑いもなく信じられますのも、考えてみれば不思議なことですね」
などとおっしゃいますと、
年を経て 待つしるしなき わが宿を 花のたよりに 過ぎぬばかりか
(ひたすらに長の年月待ちわびた その甲斐もなかったわg宿に 藤を見るついでだけに お寄りになったのですね お泊まりになろうともせず)
と、おっしゃってひっそりと身じろぎなさる気配も、漂ってくる袖の薫物たきもの の香も、昔よりは大人っぽく女らしくなられたのかしらとお思いになります。
月の沈む頃になって、西の妻戸の いている所から、さえぎる渡り廊下の建物もなく、軒端なども残りなく朽ち果てているので、月光がたいそうはなやかにさしこんでいます。そこかしこが月光に照らし出されて、昔に変わらぬお部屋の飾りつけなどが、軒の忍ぶ草が生い茂ってみる影もない外観よりは、気品高くみえます。昔の物語に、夫の留守に塔の壁をこわして夜通し灯をともしつづけて身の潔白を証明したという貞節な妻の話があります。その物語の女のように、他の男にも頼らず、年月を過ごして来たのも、つくづく不憫だとお感じになります。
ひたすら恥ずかしそうにしている姫君の様子が、やはり何といっても気品があるのも、奥ゆかしくお感じになるのでした。そういう点をこの方の取り柄としていじらしく思い、忘れずお世話しようと、昔はおいたわしく思っていたのに、長年、いろいろ苦労をしていたので、ついうっかりして訪れなかった間、さぞ恨んでいたことだろうと、可哀そうにお思いになります。
あの花散里の君も、目立って当世風にするなど、派手にはなさらないお方なので、そちらと比べても大した違いもおありでなく、この姫君の欠点もそれほど目立ちはしないのでした
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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