〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/04/08 (金) 

蓬 生 (九)
簾の内では、思いも寄らず、狩衣かりぎぬ 姿の男が忍びやかに現れて、物腰も柔らかく案内を請うようでしたので、こんな男の姿は長い間見馴れなくなっていたものですから、もしかして、狐などが化けて出たのではないかと思われます。惟光が近寄って来て、
「確かなお話をお伺いしたのです。もしこちらの姫君が昔に変わらぬお暮らしでしたら、源氏の君もお訪ねしたいお気持は、ずっとお持ちでいらっしゃいます。今宵も、このまま素通りしにくくて、お車をお止めになったのですが、何とお返事申し上げましょうか。怪しい者ではないので御心配なく、おっしゃって下さい」
と言いますと、女房たちは笑って、
「お変わりなさるようなお身の上なら、今頃こんな浅茅が原をお移りにならないことがあるでしょうか。ただ、あなたがこの様子を御覧になって、御推察なさった通りを申し上げて下さいませ。長年、様々なことを見尽くしてまいりましたわたくしのような年寄りの心にも、ほかにこんなためしはまたとあるまいと、お気の毒なお身の上を拝してまいりました」
と、だんだん打ち解けて話しだし、問わず語りもはじめそうな様子が、面倒に思われましたので、
「よくわかりました。とりあえず、そのように御報告申し上げましょう」
と言って戻りました。源氏の君は、
「どうしてこんなに長くかかったのかね。それでどうだった。昔の面影もとどめないほどひどい蓬の茂りだが」
とおっしゃいます。
「仰せの通りのひどい蓬の茂りようでして、その中を尋ねまわってやっと探し当てて会って参りました。侍従の叔母の、少将という年寄りが、昔と変わらない声をしておりました」
と、惟光は邸内の様子を御報告いたします。源氏の君は、たいそう気の毒に思われ、
「こんな草茫々の荒れ果てた中で、姫君はどんな思いで過ごしておいでだろう、今までうかつにも訪ねてあげなかったことよ」
と、御自分のお心の冷たさも思い知られるのでした。
「どうしたらいいだろう。こういう忍び歩きも、これからはたやすく出来そうにないし、こいうついでの折でもなければ、とても立ち寄れないだろう。昔のままでお変わりがないと聞くと、なるほど、そんなこともありそうなと思われる姫君のお人柄なのだ」
とおっしゃりながらも、すぐに邸内にお入りになることは、やはりはばか れるようにお思いになります。気のきいたお手紙でもまずさしあげたいけれど、あの頃のお口の重い癖までが昔のままだったら、使者の惟光がお返事をきっと待ちあぐねるに決まっている。それも可哀そうだと、お手紙を届けることをおよしになられます。惟光も、
「とてもお踏み分けになれないくらい、草むらの露がしとどでございます。従者に少し露を払わせてから、お入りになられましたら」
と申し上げますが、
尋ねても われこそ はめ 道なくも ふかき蓬の もとの心を
(探し探し尋ねてでも わたしからお訪ねしよう 蓬が深く茂り 道もかくれた 蓬生よもぎう の宿に昔と変わらずに住む あなたの深い心をたずねて)

と、ひとりごとのようにつぶやかれて、やはり車からお下りになりました。惟光はお足もとの露を馬のむち で払いながら、邸内に御案内申し上げます。雨の雫が秋の時雨しぐれ のように木々の枝から降りそそぎますので、
「お傘がございます。ほんとうにあの < の下露は雨にまされり> という古歌そのままでして」
と惟光は申し上げます。
源氏の君の御指貫さしぬき の裾は、じっとりと濡れそぼってしまったようです。昔でさえ、あるかないかわからないくらいだった中門などは、今はなおさら跡形あとかた もなくなっていて、源氏の君がお入りになるというのに、全く恰好もつかないのですが、その場に居合わせて見ている者もないので、気がねないというものです。

源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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