〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/04/08 (金) 

蓬 生 (八)
十一月ごろになりますと、雪やあられ がよく降って、それでもよそでは消える がありますのに、常陸の宮のお邸では、朝夕の陽射しを蓬や葎がさえぎっていますから、陽のささぬその草陰に深く積もっています。雪の消えることがないと言われる越前の白山はくさん が思いやられるような雪景色になります。
出入りする下人さえもいなくなった庭を眺めて、姫君はしょんぼり物思いに沈み込んでいらっしゃるのでした。たわいのないおしゃべりをしてお慰めしては、泣いたり笑ったりしてお気を紛らしてくれていた侍従までが、今はいなくなってしまい、姫君は夜も、埃の積もる御帳台の中で、独り寝のお淋しさに、もの悲しい思いをしていらっしゃいます。
二条の院の方では、久々で再会なさった源氏の君が珍しくて歓迎に大騒ぎをしている有り様なので、源氏の君は自由なお出歩きは難しく、それほど大切に思っていらっしゃらない方々へは、わざわざお訪ねもなさいません。まして、あの常陸の宮の末摘花の姫君は、まだ無事でこの世においでだろうかとお思い出しになる折もたまにはありますけれど、いそいでお見舞になろうというお気持も起こらないまま、日が過ぎて行き、その年も暮れてしまいました。

明くる年の四月の頃、源氏の君は、花散里の君をお思い出しになられて、紫の上にお暇を頂いてこっそりとお出かけになります。
この幾日か降りつづいていた雨の名残が、まだ少しぱらついた後にやみ、月も美しくさし昇ってきました。
お若い頃のお忍び歩きが思い出されて、はなやかなほどの美しい夕月夜に、道すがら昔のいろいろな恋の思い出にふけりながら、お車をすすめていらっしゃいます。ふと、見るかげもなく荒れ果てた家の周囲に木立が茂って、森のようになったところを通りかかられました。
大きな松の木に藤の花が咲き懸かって、月の光になよなよと揺れながら、風に乗って、さっと匂ってくるのがなつかしく、そこはかとない香りがただよいます。たちばな とはまた変わった風情がありますので、車からお顔をさし出して御覧になりますと、柳の枝も低く枝垂しだ れて、築地も都合よく崩れているので邪魔にならず、そこへ乱れかぶさっているのです。
何だか見覚えのある木立だなとお思いになりましたのは、それも道理、そこは常陸の宮のお邸だったのです。源氏の君はたいそう胸をうたれて、車をお止めになりました。
例によって惟光これみつ は、こうしたお忍び歩きにはお供を欠かしたことはありませんので、今夜もお側に控えております。源氏の君は惟光をお呼びになって、お きになりました。
「ここは、たしか常陸の宮のお邸だったね」
「さようでございます」
と惟光がお答えしました。
「ここにいられた姫君は、まだ今もお淋しくお一人で暮していられるのだろうか。訪ねてあげなければならないのだが、わざわざ来るのも面倒だ。こんなついでに入っていって案内を講うてごらん。ただしよく先方の事情を確かめてから、こちらのことを切り出すように。人違いだったら物笑いだからね」
とおっしゃいます。
お邸の内では姫君が、ひとしお物思いの深まるこの頃なので、しんみり沈んでばかりいらっしゃいましたが、今日の昼寝の夢に、亡き父宮がお見えになりましたので、目が覚めた後もたいそう名残惜しくて、悲しくなり、雨漏りで濡れたひさし の端の方を拭かせたり、あちらこちらのお座所を整えたり、いつになく世間並みの女らしいことをなさいます。
亡き人を 恋ふるたもと の ひまなきに 荒れたる軒の しづくさへ添ふ
(亡き父宮の恋しくて 涙に袂はいつもしとどに 濡れては乾くひまもなく 荒れ果てた軒の雨の雫も 今は涙のようにふりそそぐ)
とお嘆きになるのも、おいたわしい折柄なのでした。
惟光は門の内へ入り、どこかに人声でもしないものかと、庭に中を歩き回ってみましたが、全く人のいる気配もありません。
「やはり思った通りだ。これまで、いつもこの前を通る時覗いてみたが、人が住んでいそうにも見えなかったもの」
と思いながら門の方へ引き返す途中、月が明るくさしてきましたので見ますと、格子が二間ふたま ほど上げてあり、中のすだれ が動いているようです。ようやくのことで人がいるらしいのを見つけたものの、かえってますます気味悪くさえ感じます。近づいて合図の咳払せきばら いをしますと、ひどく年寄りじみた声で、まずごぼごぼとしわぶ きしながら、
「そこにいる人は誰です。どういう人ですか」
と問いかけます。惟光は名乗って、
「侍従の君とおっしゃったお方に、お目にかかりたいのですが」
と言います。
「その人はよそへお勤めになりました。でも侍従と同じように思っていただいていい女房が、ここのおります」
と言う声は、ひどく年寄りくさいのですが、たしか聞き覚えのある老女の声とかわりました。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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