〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/04/07 (木) 

蓬 生 (六)
冬になってゆくにつれて、今はもう何一つすがるよりどころもなくて、姫君は悲しそうに沈み込んでいらっしゃいます。
源氏の君のお邸では、故桐壺院御追善のための法華ほっけ 八講はっこう を、世間でも大評判になるほど盛大にお営みになります。殊に僧などは、並々の者はお召しにならず、学問も秀でて、修行の功も積んだ高徳の聖僧ばかりをお選びになりましたので、姫君の兄の禅師の君も参上なさいまいた。そのお帰りがけに姫君のところへお立ち寄りになられて、
「これこれの次第で、権大納言源氏の君の御八講みはっこう に参列しておりました、たいそう厳かで、仏菩薩ぶつぼさつ のおいでになる極楽浄土にも劣らないほどに、趣向の限りを尽くして尊くなさっていらっしゃいました。あんなすばらしいことをなさる源氏の君こそは、仏菩薩の化身でいらっしゃるのでしょう。そんな貴いお方が、どうして五濁悪世ごじょくあくせ のこの末世にお生まれになったのだろう」
と言って、そのままお帰りになってしまいました。お互いの無口で、世間の人に似ない変わった御兄妹なので、無益な浮き世の世間話などなさいません。
それにしても、こんな不運な悲しいわが身の有り様を、頼るなく待ち遠しく、心細がらせたまま打ち捨て構っても下さらないとは、なんと情ない仏菩薩ではないだろうかと、恨めしくお思いになるにつけ、これ以上源氏の君に対して望みは持てないだろうと、ようようおあきらめになっているところへ、大弐の北の方が突然訪ねて見えました。
いつもはそれほど親しくもしていませんのに、連れ出そうとの下心から、姫君にさし上げるお召物などを用意して、立派な車に乗り、表情や態度までもさも得意そうに万足しきった様子で、こちらの都合も聞かずに、いきなり車を走らせて来て門を開けさせます。たちまち邸内の無残に荒れ果てているのが見え、その見苦しさ、侘しさは言いようもありません。
門の左右の扉もみな傾いて倒れていますので、北の方の供人ともびと が門番の男を手伝って、大騒ぎの末、ようよう開けました。陶淵明とうえんめい の詩にもあるように、こんなすた れた淋しい家にも、かならず草を踏み分けた人の足跡のついた三つのこみち ぐらいはある筈だが、いったいどこにあるのだろうと、たどって行きます。ようやく南向きの方に格子をあげた一間ひとま がありましたので、そこへ車を寄せますと、姫君はずいぶん不躾なことをする人だと、対応に当惑なさりながらも、呆れるほどすす けた几帳をさしだして、そこから侍従が対応に出て来ました。
侍従は年来の苦労で、顔などはすっかりやつれてはいるものの、それでもやはりどことなく垢抜けした奥ゆかしい風情で、もったいない話ですが、いっそ姫君と取り換えたいくらいに見えます。北の方は、
「旅立とうと思いながら、姫君のおいたわしい御様子をお見捨てして行きかねるのですが、今日は侍従の迎えに参りました。情けないことに姫君はわたくしをすっかり疎遠になさって、御自分はほんの少しもわたくしの方にはお越し下さいませんけれど、せめてこの侍従だけでもお暇を頂きたいと存じまして。それにしてもどうしてまあ、こんなおいたわしい御様子でお過ごしでいらっしゃることやら」
と言って、普通ならここで泣きもするところでしょう。けれども、北の方は、夫の栄転の任国に思いをはせて、たいそう満足そうにしています。
「故常陸の宮が御存命でいらっしゃった時、わたくしのことを宮家の体面を汚したと思われ、お見捨てなさいましたので、それ以来疎遠になってしまいましたが、こちらはこれまでだって、どうして宮家を疎略にお思いしたことでしょう。ただあなた御自身が高貴なお身の上のように思い上がっていらっしゃいましたし、源氏の大将殿などがお通い遊ばす御運勢をもったいなく存じましたので、賎しいわたくしどもが親しそうに近寄るのも御遠慮することが多くて御無沙汰いていました。ところが人の世の中はこんなふうに無常なものですから、わたくしのような人数にも入らないようなつまらない身分の者は、不運に見舞われたところで困ることもないから、かえって気楽というものです。昔は、およびもつかないお方と仰いでいたあなたのお身の上が、今はほんとうにおいたわしく悲しいので、近くに居ります間は御無沙汰しておりましても、そのうちにと、のんびり構えて安心しておりました。ところが今度はるばる遠国に行くことになりましたので、あなたのことが心配でおいたわしくてなりません」
などと話しこみますが、姫君は、気を許したお返事もなさいません。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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