そうこうしているうちに、はたして源氏の君が帝にしゃめんされて、都にお帰りになられました。天下の人々は狂喜して上を下への大騒ぎになります。自分こそは、どうかして誰よりも先に、源氏の君に対する深い忠誠を認めていただきたいとばかりあせって、先を競う男女の有り様に、源氏の君は身分の高下にかかわらず、あらゆる人々の心の表裏をすっかり御覧になってしまい、つくづく世間についてお悟りになるこよがいろいろおありになりました。 それやこれやのお忙しさで、源氏の君は、常陸の宮の姫君のことなどは、さっぱり思い出される御様子もないままに、月日が過ぎていきました。姫君は、 「ああ、もうこれでおしまいなのだわ。これまで長い年月、源氏の君の思いもよらない御身の上をたまらなく悲しく存じあげながらも、やがてまた早蕨の萌え出る春のように何の屈託もない日を迎え、わたくしと御逢いして下さるようにと、ずっと祈りつづけてきたけれど、しがない下々の者たちまでがお喜びしているよいう源氏の君の御昇進のことなども、わたくしは他人事
のように聞いていなければならない。あの悲しかった君の都落ちの時の辛さは、ただ自分ひとりが背負うために起こったことのようにさえ感じられたものだったのに。それも今となっては甲斐ない源氏の君とのはかない仲だったのだわ」 と、心も打ち砕かれたように思い乱れて、恨めしく悲しいので、姫君は人知れずひたすら声を上げてお泣きになるばかりでした。 大弐の北の方は、 「そらごらん。どうしてこんなよるべもないみっともないお暮らしの方を、誰が人並みに扱って下さるものですか。仏や聖ひじり
でさえも、罪業の軽い者をこそ救い易いと導かれるそうです。ここまで落ちぶれて情けない有り様でいながら、気位高く世間に対して威張っていて、父宮や、母北の方の御在世の時と同じように思っていられる、あの高慢さが可哀そうなものさ」 と、ますます姫君を愚かしい方だと思って、 「やはり御決心なさいませ。世の中がつらく悲しい時は、そういうことのない淋しい山奥を探して旅に出るものですよ。田舎などはいやな所と想像なさるかも知れませんが、そうむやみに世間体の悪いようなお扱いは決していたしませんから」 などと、たいそう言葉巧みに誘いますと、すっかり気を腐らせていた女房たちは、 「おっしゃる通りになさればいいのに。どうせこれからも大したこともなさそうなお身の上なのに、どういうおつもりで、こんなに我を通そうとなさるのかしら」 と、ぶつくさ苦情を言って非難しています。 侍従も、あの大弐の甥おい
とかいう男と深い仲になっていて、男が侍従を都に残しておいてくれそうになかったので、不本意ながらも自分も一緒に出立することになりました。 「姫君をお残して行きますのが、とてもつらくてなりません」 と言って、姫君にもしきりに九州行きをおすすめしましたが、姫君はまだ今でも、こんあに訪ねて下さらないまま、すっかり遠のいてしまった源氏の君に、やはり望みをかけていらっしゃいます。 お心のうちには、 「いくら何でも、このまま年月が去っていくうちには、ふと思い出していただける折がないとも限らない。あんなにしみじみとやさしく、真心のこもったお約束をしてくださったのだもの、わたしの運のつたなさから、こんなふうに忘れられているだけなのだろう。風の便りにでも、わたしのこうしたひどい暮らし向きをお耳になさったなら、かならずきっと、思い出してお訪ねしてくださるにちがいない」 と、この年月思いつづけていらっしゃったのです。 お邸の大体の御様子も、前よりなお一層見苦しく荒れはてておりますけれど、ちょっとしたお道具類なども、売ったりして失くさないように御自分ひとりの意志を通して、辛抱強く昔の通りにして耐え忍んで過ごしていらっしゃるのでした。それでもともすれば泣き声をおさえきれず涙にかき暮れる日が多く、いっそう悩み沈んでいらっしゃいます。そのお姿といえば、なるで樵夫きこり
が赤い木こ の実を一つ顔の真ん中にくっつけて放すまいとしているように見えます。その横顔などは、たいていの者にはとても我慢の出来るお顔ではありません。でも、まあ、そんなことはあまりくわしくは申しますまい。お気の毒ですし、口さがないようですから。 |