源氏の君は、そういうこととは夢にも御存じなく、その夜は夜を徹して、さまざまな神事を奉納されます。たしかに神のお喜びなさえうにちがいない儀式の数々を尽くして、須磨流謫
の時に立てた色々の御誓願が果たされた御礼に加えて、前例にないほど盛んに奉納の管絃を夜の明けるまで、賑やかに奏したりなさいます。 惟光これみつ
のような苦楽を共にしてきた家来は、心の内に住吉の神の御加護を肝に命じて有り難く思っているのでした。ほんのひととき、源氏の君が奥から出ていらっしゃった時に、惟光はお前にかそこまって申し上げました。 |
住吉の
松こそものは 悲しけれ 神代のことを かけて思へば (住吉の浜辺の松を 眺めてもこみあげてくる この 胸の悲しさよ あの昔、須磨明石での
流謫の辛い日々を思えば) |
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源氏の君もつくづくうなずかれ、 |
あらかりし
波のまよひに 住吉の 神をばかけて 忘れやはする (荒れ狂った須磨の波風よ 恐怖におののいた あの嵐の夜のすさまじさ 思い出すにつけても住吉の
神の御加護を忘れられようか) |
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「あらたかな御霊験だったな」 とおっしゃるお姿も、これ以上すばらしいことはありません。 あの明石の一行の船が、この騒ぎに気圧けお
されて参詣もせずに立ち去って行ったことを、惟光がお耳にお入れしますと、源氏の君はそれは全く知らなかったと、可哀そうにお思いになります。住吉の神のお導きで結ばれた縁をおろそかには思えませんので、 「せめて短い便りでもやって慰めてやろう、つい側まで来ていながら、空しく引き返したのなら、さぞかしかえって辛い思いをしていることだろう」 と同情なさいます。 御社を御出立になり、道中の名所をあちらこちらと御遊覧なさいます。難波の御祓いなどは、殊におごそかに儀式をおつとめになりました。 堀江のあたりを御覧になられて、<今はた同じ難波なる>
と、つい思わずお口ずさみになりましたのを、御車のお側近くにひかえていた惟光がお聞きしたのでしょうか、そんな御用もあろうかと、いつもの通り懐に用意している携帯用の柄の短い筆などを、御車がとめられてところでさしあげました。よく気が利くとお思いになって、畳紙たとうがみ
に |
みをつくし
恋ふるしるしに ここまでも めぐり逢ひける 縁えに
は深しな (身を尽くして恋い慕う その甲斐あってか 澪標みおつくし
のあるこの難波で あなたにめぐりあえた その宿縁の深さの嬉しさよ) |
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と書いて惟光にお渡しになりました。惟光は明石での事情をよく知っている者に命じて、そのお手紙を明石に君に届けました。 源氏の君の一行が馬を連ねてお通り過ぎになるのを見ても、明石の君は心が波立つばかりでしたので、お手紙は露のように短くはかないものでしたけれど、しみじみ心にしみてありがたく、泣けてくるのでした。 |
数ならで
なにはのことも かひなきに などもをつくし 思ひそめけむ (人数ならぬわたしの身の上 どうせ甲斐ないこの世と あきらめきっていたというのに
どうして身を尽くしてまで 君を恋いそめてしまったのか) |
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源氏の君が田蓑たみの
の島で御禊みそぎ をおつとめなさる時の、祓いに使う筈の木綿ゆう
につけて、この返歌をさしあげました。 日は黄昏たそが
てきます。夕潮が満ちてきて、入り江の鶴も声を惜しまず鳴き渡るのが、旅愁をそそる折からのせいでしょうか、源氏の君は、人目もはばからず明石に君にお逢いしたいと、せつなくお思いになります。
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露けさの 昔に似たる
旅衣 田蓑の島に 名は隠れず (涙に旅衣が濡れるのも 昔の流浪の旅に似て 田蓑の島というけれど この身はかくれず 涙の雨に濡れている) |
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お帰りの道すがら、楽しい遊覧をなさって賑やかに遊び興じていらっしゃっても、源氏の君のお心には、やはり明石の君のことが思いつづけられています。 遊女たちが沢山まいりました。上達部といわれる人の中にも、若い気分の色好みな方々は、皆遊女たちに気を奪われているようです。けれども源氏の君は、 「さあ、どんなものか、おもしろい会話も、胸にしみる情趣も、つまりは、相手の女の人柄次第だろう。かりそめの恋のたわむれにしたって、少しでも浮ついたところが見えるのは、心をとめる値打ちもないものなのに」 とお思いになりますので、遊女たちが、それぞれいい気になってしなを作ってしなだれ戯れている様子も、疎ましくお感じになるのでした。 |