五月五日は、ちょうど姫君の生後五十日
の祝いに当たるはずだと、源氏の君は人知れずお数えになって、幼い姫君はどうしていらっしゃるかと、いとしく思いをお馳は
せにになります。 「都で生れていたら、どんなことも思う存分に世話をしてあげられて嬉しいだろうに、ままならぬことだ。あんな田舎に、不憫な状態で生れてきたこと」 と、お思いになります。男のお子だったら、こうまでお心におかけにならないのでしょうが、姫君なので、もったいなくもいたわしく思われて、御自身の運勢も、この姫君誕生のために、一時、不運な境遇に落ちたのだと、お考えになるのでした。 お祝いのお使いを明石へおさし向けになります。 「必ずその日に間違いなく到着せよ」 と仰せられましたので、ちょうど五月五日に到着いたしました。源氏の君のお心遣いの品々などは、どれもめったにない珍しい結構なものばかりで、他に実用的な贈り物まで揃えてあります。
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海松うみまつ
や 時ぞともなき 蔭にゐて 何のあやめも いかにわくらむ (水底の岩陰の海松みる
のように わびしい海辺に時もわかたず 暮している娘よ 今日を五十日い か
の祝日とも知らず 常のように迎えるのか) |
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「心もそぞろなほどそちらのことを思っています。やはりこのままでは過ごすわけにはいかないから、京へ来ることを決心して下さい。大丈夫ですとも、心配させるようなことはしませんから、決して」 とお書きになります。 入道は、例によって嬉し泣きをしていました。こんな嬉しい時は、生きている甲斐もあったと、泣きべそをかいているのも、無理もないことと思われます。 入道の邸でも、祝いの品を所狭いまでに沢山用意してありましたけれど、この源氏の君からのお使いが来なければ、晴れの儀式も闇夜の錦のように、何の見映えもせず終ってしまうところでした。 乳母も、この明石の君の理想どおりのすばらしいお方なのを、よい相談相手にして、田舎住まいの憂さを慰めているのでした。この乳母にそれほど劣らない女房も、縁故をたどって京から呼び迎えて置いてあります。その人たちはすっかり落ちぶれはてた、宮仕えの経験のある女房などです。世を逃れて、流浪して巌の中に住みつくような人たちが、たまたまここに身を寄せているといった人々なのです。そんな中では源氏の君がよこされた乳母は、この上なくおっとりしていて気位も高いのでした。 興味深いいかにも面白い世間話などをして、源氏の大臣の都での御様子や、世間からあがめられていらっしゃる人気のすばらしさなどを、女らしく心にまかせて、はてしもなく喋りつづけるので、明石の君も、 「ほんとうに、こんなすばらしい源氏の君ほどのお方が、こうまで思い出して下さる姫君という、愛の形見を産んだわたしも、なかなか大した者なのだわ」 と、ようやく思うようになりました。 源氏の君のお手紙を御一緒に拝見して、乳母は心の内に、 「ああ、こんな思いもかけないほどの御幸運な方も世の中にはあるものなのだ。それに引きかえ何と情けないわたしの身の上だこと」 と、思いつづけずには入られません。けれども、 「乳母は、どうしていますか」 など、お手紙に中に、源氏の君がおやさしく案じられてお尋ね下さっているのも有り難くて、それだけでどんんあ功労も慰められるのでした。 お返事には、 |
数ならぬ
み島がくれに 鳴く鶴たづ を けふもいかにと
とふ人ぞなき (島陰で鳴く鶴のような わびしいわたしを母として 片田舎に育ついとし子よ 五十日の祝いの今日というのに 祝いに来てくれる人もいないとは) |
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「何かにつけて物思いにふさいでおります日常を、こうしてごく稀にお慰め下さるお手紙におすがりして生きているわたしの命も、いつまでつづくことかと心細くてなりません。ほんといにお言葉のように、姫の身の上が安心できるよう、おはからい願いたいものでございますけれど」 と、真心込めてしたためました。 源氏の君はそのお返事を繰り返し御覧になりながら、 「ああ、可哀そうに」 と、長嘆息なさりながら独りつぶやかれるのを、紫の上は流し目にちらと御覧になって、 <浦より遠方をち
に漕ぐ舟の> と、そっと独り言をつぶやかれてしんみり考え込んでいらっしゃいます。その古歌の下の句は <我をばよそに隔てつるかな> ですから、源氏の君は、 「ほんとうに、そこまで邪推なさるとは。これは、ただ、あわれといっても、ほんのこの場限りの感慨にすぎないのですよ。あの明石の景色などを思い出す折々、過ぎ去った昔のことが忘れられずに、つい洩らす独り言です。それまでよくまあ、聞き逃さずとがめられる「とは」 など、恨み言をおっしゃって、お手紙の表包みだけをお見せになります。明石に君の筆跡など、たいそう風情があり立派で、高貴な御身分のお方でもたじろぎそうなのを、紫の上はお目に止めて、万事こんあふうだから源氏の君が惹かれていらっしゃるのだろうとお察しいたします。 こうして、紫の上の御機嫌をおとりになるのにまぎれて、花散里の君をすっかりお見限りの形になっていられたのも、お気の毒なことでした。 何かと政務も御多忙で身動きも儘まま
ならぬ御身分なので、おしのび歩きも自重していらっしゃる上に、花散里の君からも、目新しくお心を惹くようなお便りもないので、源氏の君もつい落ち着いていらっしゃるのでしょう。 |