〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/03/24 (木) 

澪 標 (八)
五月雨さみだれ がしとしとつづいて所在ない頃、公私共にお暇なので、源氏の君は思い立たれて、ようやく花散里君のところへお出かけになりました。
源氏の君がお訪ねにならなくても、明け暮れの日常の経済的な面は、何かとお心を配ってお世話しておあげになるのを頼りにして、お暮らしになっていらっしゃるお方ですから、当節の女たちのように様子ぶって、すねたり、恨んだりなさる筈もありません。それで、源氏の君も気がねがなさそうです。
この数年の間に、お邸はいといと荒れはてて、いかにもmの淋しいお暮し向きの御様子です。
まず姉君の麗景殿れいけいでん女御にょうご にお目にかかってお話なさった後、花散里の君のお住まいになる西の妻戸には、夜がすっかり更けるのを待ってから、お立ち寄りになりました。
折から月の光がおぼろにさしこんで、源氏の君の艶にお美しい立ち居の御様子が、限りなくすばらしくお見えになります。
花散里の君は、源氏の君にますます気おくれなさいますものの、それまで端近くにいて、ぼんやり物想いび沈んでいらっしゃったそのままのお姿で、あわてずおっとりとお迎えになる御様子は、なかなか悪くはありません。
水鶏くいな がたいそう近くで戸を叩くように鳴いたのを聞かれて
水鶏くいな だに おどろかさずは いかにして 荒れたる宿に 月を入れまし
(せめてあの水鶏でも 鳴いてくれなかったなら 訪れる人もない荒れはてたこの家に 美しい月影のようなあなたを 迎え入れることが出来たでしょうか)

と、しみじみしたやさしさを込めて、訪ねてくれなかった恨めしさを、控えめにおっしゃるのです。
「ああ、どの人もそれぞれに捨てがたい さを持っていることよ。これだから、かえってわたしも苦労するのさ」
と、お思いになります。

おしなべて たたく水鶏に おどろかば うはの空なる 月もこそ入れ
(どの家の戸も叩く水鶏の声 その度ごとに驚いて開けていては とんでもない浮気男が 月の光のように 入ってくるかも知れないよ)
「心配なことですね」
と、一応口先の軽口をおっしゃいますけれど、花散里の君は真面目一方で、浮気めいたことなどで、疑いを招くような御性質ではありません。長い年月、源氏の君だけをひたすらお待ちして過ごしていらっしゃったことも、君は決しておろそかには思っていらっしゃらないのでした。須磨へ御出発の前に、 「空な眺めそ」 と歌われて、源氏の君がお励ましになった折りのことなども、花散里の君は話し出されて、
「どうしてあの時は、こんな悲しみはまたとあるまいと思いつめて、嘆き悲しんだのでしょう。不幸せなわたしにとっては、あなたが御帰京になられたところで、めったにお逢いできない悲しさは同じですのに」
とおっしゃいますのも、おっとりとして可憐なのです。源氏の君は例によって、どこからお出しになるお言葉なのか、こまやかに、綿々ときりもなくお慰めなさいます。
こんなことのついでにでも、源氏の君はあの五節ごせち 0000の女君をお忘れになりません。もう一度逢いたいものだとお心にかけていらっしゃるのですけれど。とても今はむずかしくて、ひそかにお逢いになることもとうていかな いません。
五節の君は、源氏の君をお慕いするため物思いに沈んでおります。親たちはいろいろ心配して縁談を持ちかけてもみるのですが、娘は、人並みに結婚することをあきらめきっております。
源氏の君は、気のおけない御殿を御造営になって、そこにこういう女たちを寄せ集めて、もしの思い通りに養育なさりたいような姫君でも生まれたら、その姫君のお世話役でも、この女君たちにさせてはと、お考えになります。
あの二条の東の院の御改築の様子は、本邸よりもかえってなかなか見どころが多く、当世風に出来ております。風雅を解する受領ずりょう などを選んで、それぞれに分担させて、工事をお急がせになりました。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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