〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/03/20(日) 

澪 標 (一)
ありありと夢に桐壺院のお姿を御覧になられてからは、源氏の君は、故院のじちうぃお心におかけになっていらっしゃいます。あの世で悪道あくどう ちお苦しみになっていらっしゃるという故院の罪障を、どうにかしてお救いするための、追善供養をしてさしあげなければと、御心配して嘆いていらっしゃるのでした。そこで、こうして都にお帰りになられてからは、まずその御準備を急いでなさいます。
十月には法華ほっけ 八講はっこう をお催しになりました。世間の誰もがこぞって御威勢になび き従い御用を承ることは、全く昔と同じようでした。
弘徽殿こきでん大后おおきさき は、まだ御病気が重くていらっしゃる上に、とうとう源氏の君を排斥しきれなかったことが、心中腹立たしくてなりません。けれどもみかど は、故院の御遺言をお心にかけていらっしゃいます。御遺言に背かれたので、その「報いがきっとあるにちがいないと恐れていらっしゃいました。今では源氏の君を京に呼び戻されて、すっかり元も地位にお戻しになりましたので、御気分もさわやかになられました。時々、お悩みになられていた眼病も、よくおなりになりました。
それでも、どうせ長生きは出来なさそうだと、心細いことばかりお考えになり、帝位にも長くはお留まりになれないとお考えになっていらっしゃいます。始終源氏の君をお召しになられますので、いつもお側に参上なさいます。政治向きのことなども、お心の隔てなく、源氏の君にすっかり御相談なさっては、御満足の御様子なので、世間の人々も、よそながら結構なことと、お喜び申し上げているのでし。
近々、御退位なさろうと御決心なさるにつけても、朧月夜おぼろづきよ尚侍ないしのかみが、心細そうな様子でこれからの身に上を嘆き案じていらっしゃるのを、帝はたいそう不憫ふびん にお思いになるのでした。
「前太政大臣だじょうだいじんがお亡くなりになり、弘徽殿の大后も御病気が重く、あまたは頼み少なくんられる一方なのに、わたしの余命も残り少ない気がしてきました。それにつけてもあなたがほんとうに可哀そうです。これからは、すっかり打って変わった境遇になり、この世にひとり残されることでしょう。あなたは昔から、わたしをあの人より下に見縊みくび っていられたけれど、わたしの方は誰にも劣らない深い愛情を一途にあなたに持ちつづけていて、ただ、あなたのことだけを、しみじみいとしく思っていたのです。あのわたしよりすぐれた人が、ふたたびあなたのお望み通り、よりを戻してお世話なさるにしても、愛情の深さという点では、並々ならぬわたしのそれとは比べものにはなるまいと思います。そう考えてみるだけでも、わたしは、辛くてたまらないのです」
と仰せになって、お泣きになられるのでした。
女君はお顔をたいそう赤く染められて、愛嬌あいきょう がこぼれるばかりの可愛らしさで涙を流しています。
帝はそれを御覧になると、尚侍の過去のすべての過失もお忘れになって、ただもうしみじみといじらしくお思いにならずにはいらっしゃれないのでした。
「どうしてあなたがせめてわたしの御子みこ だけでもお産みでなかったのだろう。ほんとうに残念だった。宿縁の深いあの人のためには、そのうちお子がお出来になるだろうと思うと、とても口惜しくてたまらない。それでもその場合は身分に定めがあることだから、臣下の子なら、当然臣下として育つことになりますよ」
などと、将来のことまでお話になるので、尚侍はたいそう恥ずかしくも悲しくもお思いになります。
帝は御容貌など、優雅でお美しくて、尚侍への限りない御愛情は、年月と共にますます深まるかのように大切にお扱いくださるのでした。源氏の君はたしかにすばらしいお方だけれど、それほど深く自分を愛して下さったとは思えなかった。その折々の御態度やお気持などをふりかえられます。物事が次第に分かってくるにつ、今では、どうして若気の無分別にまかせて、あんな騒動までひきおこして、自分の評判を落としたことはもとより、源氏の君の御ためにもとんだご迷惑をかけてしまったのだろうと、反省なさるにつけても、尚侍はつくづくわが身がいとわしくなってしまわれるのでした。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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