〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/03/16(水) 

明 石 (十七)
御出発はいよいよ明後日あさって という日になって、いつものようにすっかり夜も更けてからではなくて、早々と源氏の君は岡の邸にお渡りになりました。はっきりともまだ御覧になったことのない女君のや姿などが、たいそう風情のある上品な感じで、気高く意外にもすばらしい器量の女だったので、いまさら見捨て難く、名残惜しくお思いになります。いずれしかるべき扱いをして京へ呼び迎えようという気持になられました。そう話して将来の約束をしておなぐさめになります。
源氏の君のお顔だちや御様子のすばらすさは改めて申すまでもありません。年来の勤行のため、たいそうおも やつれしていらっしゃるのも、かえって言いようもなくお美しいのです。いかにも女に対して気の毒そうな御様子で涙ぐまれながら、しみじみと心を込めておやさしく将来のこともお約束になります。女君もこういうお方となら、ただただこれくらいはかない関係でも、身に余る幸せと思って、あきらめてもいいのではないかとまで思われもしますけれど、そうした男君のすばらしさにつけても、自分の身分を考えると、悲しみは尽きないのでした。
波の音も秋風の中では、やはり格別に響いて聞こえます。塩焼く煙がかすかにたなびいて、何から何まで、すべてがもの悲しさを集めたようなこの地の景色なのでした。
このたびは 立ちわかるとも 藻塩もしほ 焼く けぶり は同じかたになびかむ
(今は別れ別れてゆこうとも 藻塩焼く煙の 同じ方へたなびくように やがてはあなたをわたしのいる 都に迎えましょう)

と源氏の君がおっしゃいますと、明石の君は

かきつめて 海人あま のたく の 思ひにも 今はかひなき 恨みだにせじ
(掻き集めた藻を海人が焼く 火に似たもの思い その多さに胸もはりさけそう でももう甲斐のないお恨みも 申し上げるのはよしましょう)
とせつなそうに泣き沈んで、言葉は少ないものの、こういう場合の御返歌などは、細やかに申し上げます。
源氏の君は、いつも聞きたがっていられた明石の君の琴の音を、女君がとうとう今までどうしてもお聞かせ申し上げなかったことを、たいそうお恨みになられます。
「それではお別れに、あなたの形見として思い出になるように、一節だけでも」
とおっしゃって、京から持参されたきんこと を海辺の邸へ取りにおやりになり、まず御自分がとりわけ風情のある曲を、ほのかにお弾き鳴らしになります。深夜に響く澄みきった音色の美しさは、たとえようもありません。
入道はそれを聞いて感に堪えないで、そうこと をとって御簾みす の内にさし入れました。女君も、ひとしお涙までもよおされて、とど めようもありませんので、自然と気持が誘われたのでしょう。ひそやかに弾き鳴らすのが、たいそう気品高い演奏ぶりなのでした。
源氏の君は藤壺の尼宮のおこと の音色を、当代にたぐいのないものと思っていらっしゃいましたが、それは当世風にはなやかで、聞いている人が惚れ惚れして、お弾きになるお方のお姿まで、目の前に浮かんでくるような点では、ほんとうにこの上もないすばらしいお琴の音色なのでした。
明石の君の弾くお琴は、あくまで音色が深く冴えきって、心憎いほどの美しさを出す点がすぐれております。
源氏の君のような音楽に堪能なお方でさえ、はじめてお耳にされる曲などを、しみじみとなつかしく弾いて、もっと聞きたいと心そそられるあたりで、弾きやめたりしますので、物足りなくお思いになります。それにつけても、これまでの歳月、どうして無理にもせがんでこのお琴をいつも聞かせてもらわなかったのだろうとお悔やみになります。
お心のありったけを傾けて、将来のお約束ばかりをなさいます。源氏の君は、
「このきん はまた逢う日に、ふたりで合奏するまでの形見にここへ残していきましょう」
とおっしゃいます。女君は
なほざりに 頼め置くめる 一ことを 尽きせぬ音にや かけてしのばむ
(どうせお口から出まかせの 軽い気休めの一ことを心の頼りに つきせぬ悲しみに声をあげて 泣きながらいつまでも お慕いしていましょう)
と、言うともなく口ずさむのを、源氏の君はお恨みになって、
逢ふまでの かたみに契る 中の緒の しらべはことに 変らざらなむ
(また逢う日までの形見にと 残していくこの琴の 中の緒の調べは ふたりの仲のしるしのように その音をとくに変えないでほしい)
「この琴のいと の調子が狂わないうちに、必ず逢いましょう」
と、それを頼みに約束されるようでした。
けれども女君は、ただ目の前の別れの辛さに胸を一杯にして泣きむせぶのも、実にもっともなことなのでした。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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