〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/03/13 (日) 

明 石 (十三)
岡の邸の造り方は、木立が深々と茂って、なかなか数寄を凝らした見どころのある住まいでした。
海辺の邸は、どっしりとして趣にとんでいますが、こちらはいかにもひっそりともの静かなたたずまいで、こういう所に暮していたら、ある限りの物思いをし尽くすことだろうと、住み人の心も思いやられ、しみじみとせつなくなられます。
三昧堂さんまいどうが近くにありますので、鐘の音が、松風に響き合って聞こえるのも悲しく、岩に生えている松の根の姿さえ、何やら風情がありげで、前庭の草かげには、秋の虫が声も限りに鳴きたてています。源氏の君は邸内のここかしこを御覧になります。
娘を住まわせてある方の一棟は、格別念入りに磨きたてて、月光のさし入ったまき の戸口を、ほんの少し開けてあります。
内に入られた源氏の君が、ためらいがちに、あれこれとお話かけなさいましても、娘はこれほどまで近々と親しくお目にかかりたくはないと深く思い込んでいましたので、ただ悲しくて、少しも打ち解けようとはしません。その娘のかたくなな心構えを、源氏の君は、
「何とまあ、ひどく上品ぶって気どっていることよ。もっと近づき難い高貴な身分の人たちでも、ここまで近づいて言い寄れば、気強く拒みきれないのが普通だったのに、自分が今、こんなに零落しているので、あなど っているのだろうか」
と、しゃく に障り、さまざまに思い悩まれるのでした。
「思いやりなく、無理を押し通すのも、今の場合、ふさわしくない行為だ。かといって、このまま根競べに負けてしまっては、体裁の悪い話だ」
などと、思い悩んで、恨みごとをおっしゃる源氏の君の御様子は、全く、物の情のわかる人にこそ見せたいようでした。

女の身近にある几帳きちょうひも に、筝の琴の絃が触れて、かすかな をたてたのも、無造作な様子でくつろぎながら琴を手なぐさみに弾いていたらしい女の様子が目に見えるようで、興が湧きますので、源氏の君は、
「いつもお噂に聞いているあなたのお琴の音さえ、お聞かせくださらないのですか」
などと、さまざまに話しかけてごらんになります。
むつごとを 語りあはせむ 人もがな 憂き世の夢も なかば むやと
(ふたり寝の愛の言葉 語りあう人のほしさよ 愁いの多いこの世の 苦しい夢さえなかばに さめてくれようかと)
と源氏の君が詠みかけられますと、
明けぬ夜に やがてまどへる 心には いづれを夢と わきて語らむ
(明けることのない 長夜の闇の中に 迷いつづけている心には 何が夢やらうつつやら 語るすべさえないのです)

と、娘がかすかに返歌を言う様子は、伊勢に下った六条の御息所みやすどころにたいそうよく似ています。
娘はなんの心の支度もなく、くつろいでいたところへ、こうして意外なことが起きてしまったので、困り果てたあげく、近くの部屋の中に逃げ込んで、どう戸締まりしたものやら、こちらからはびくとも動きません。源氏の君は、それを御覧になり、無理にも思いを通そうとはなさらない御様子です。けれども、どうしていつまでも、そんな状態でいられましょう。
とうとう、部屋に押し入り逢ってみると、この娘の様子は、いかにも気品が高く、背もすらりとしていて、こちらが気恥ずかしくなるような奥ゆかしい風情なのでした。

こうまでして無理にも結ばれた深い縁をお考えになるにつけても、源氏の君は、ひとしお娘をいとしくお思いになるのでした。お逢いになられてから、ご情愛もいっそう深まるのでしょう。いつもなら飽き飽きして恨めしく思われる秋の夜の長さも、今朝ばかりは早々と明けたような気がします。人に知られまいとお気遣いなさいますのも、気ぜわしくて、おやさしく心を込めたお言葉を残してお帰りになりました。
後朝きぬぎぬ の御手紙が、たいそう人目を忍んでこっそりと、今日は届けられました。あらずもがなの良心の呵責かしゃく のせいでしょうか。
岡の邸でも、こういう成り行きが、なんとか世間に れないようにと気を遣って、お使いを大げさにも接待出来ないことを、入道は残念に思っています。
こうしてそれから後は、人目を忍びながら時々お越しになります。場所も少し遠いので、途中に自然と口さがない土地の者がうろついていて遭いはしないかと気がねをなさって、ついお通いも控え目になさるのを、娘の方はやはり思った通りだったと嘆いています。それを見て入道も、ほんとにこれから先、どうなることかと心配で、極楽往生の願いも忘れて、ひたすら源氏の君のお越しだけをお待ちすることに心をくだいています。出家の身で、今更になって、娘のことで思い悩んでいますのが、まことに気の毒なありさまです。

源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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