〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/03/12 (土) 

明 石 (十二)

明石では、いつものように、秋は浜風がことさら身にしみますので、源氏の君は独り寝もつくづく淋しいお気持になられて、入道にも折々話をお持ち掛けになります。
「何とか人目をまぎらして、姫をこちらへ寄こしなさい」
とおっしゃって、御自分の方から出かけようとは、思いもしないのでした。
「全く取るに足らない身分の田舎者なら、ほんの一時、都から下って来た人の心安だての甘言にのせられて、そんな軽はずみな契りを結ぶこともするだろうが、わたしなどどうせ源氏の君からは人数ひとかず にも思われていないだろうから、辛い気苦労の種を加えるだけのことだろう。こんなに及びもつかない高望みをしている親たちも、わたしがまだこうして縁づかないでいる間は、当てにもならぬことを頼りにして、将来を楽しみにしているのだろうけれど、もしそんなことになればかえって大変な心配をし尽くすことになるだろう」
と思って、
「ただ源氏の君がこの明石の浦にいらっしゃる間、こうしたお手紙のやりとりをさせていただけるだけでも、並々ならず有り難いことなのだ。長年噂ばかり聞くだけで、いつかはしんなすばらしいお方の御様子をほのかにでも拝見したいもの、でもそんなことはどうで叶わぬ望みと思っていた。それがこうして思いもかけず、源氏の君が明石にお住まいになり、よそながら、かい間見させていただき、世に並びない名手と噂に聞いていたお琴の音色まで風の便りに聞くことが出来た。明け暮れの御様子も親しくうかがわせていただき、その上、こうまでして、わたしなどを人並みに扱って下さり、お便りをいただいたりすることは、それこそこうした海人たちの中で日を送り、落ちぶれ果てた自分にとっては、分に過ぎたことだ」
と思うと、ますます気おくれがして、夢にもおそば近くなどとは、とうてい思いも寄りません。
親たちはこれまでの長年の祈りがいよいよ叶うことになるのだとは思うものの、不用意に娘をお会わせして、万一、人並みに扱っていただけなかった時には、どんなに悲しい目にあうだろうと想像すると、心配でたまらず、
「源氏の君がどんなにすばらしいお方だと言っても、そんなことになったら、たいそう悲しくひどく辛い思いをするだろう。それなのに目に見えない神仏におすがりして、肝腎の源氏の君のお気持も、娘の運命の行く末についても分からないまま、勝手な望みを抱いたりして」
などと、改めてあれこれ反省すると、たいそう心配になり、思い悩むのでした。
「この頃の波の音を聞くにつけても、あの話の人の琴の音を聞きたいものだね。さもないと、せっかくこの秋の宵の甲斐もないではないか」
などと、いつもおっしゃっていらっしゃいます。
入道は内々吉日を占わせて、母君がとかくわれこれ心配するのに耳もかさず、弟子たちにさえ知らせず、自分ひとりで事を運んで、娘の部屋を輝くばかりに美しく飾り整えています。十三日の月がはなやかにさし出た頃合に、<あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや> の古歌から引用して、ただ 「あたら夜」 とだけ申し上げます。今宵こそ、わが家の花を御覧下さいというつもりなのです。源氏の君は、ずいぶん風流がかっていることだとお思いになりますけれど、御直衣おんのうしをお召しになり、身だしなみを整えられて、夜が更けるのを待ってお出ましになります。お車はこの上なく立派に入道が用意してありましたけれど、大げさになるからと、馬でお出かけになります。お供には、惟光などだけをお連れになります。
岡の邸はやや遠く、山の方へ入りこんだ所なのでした。道すがらも、四方よも の浦々の景色を見渡されて、古歌にもあるように、愛しい人とともに眺めたいような入り江の海に沈む月影を御覧になるにつけても、まず恋しい紫の上のことをおしの びになります。いっそこのまま馬を引いて通り過ぎ、都の方へ向かいたいお気持になられます。

秋の夜の つきげの駒よ わが恋ふる 雲居を翔けれ 時の間も見む
(秋の夜を往く月毛の駒よ わたしの恋い憧れる遠い都の 大空へ翔び去って行け つかの間でも恋しいあの人の なつかしいおもかげ を見ようものを)
と、ついひとりごとをおっしゃいます。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next