〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/03/04 (金) 

明 石 (六)

小やみなく降り続いていた雨空も、名残なく晴れ渡って、漁をする海人あま たちも、景気よく見えます。
須磨はいかにも心細くて、岩陰のの海人の小屋なども少なかったのに比べ、明石は人の多いことが目障りでしたけれど、また一方では、須磨とは違った風情に富んでいることも多く、何かとお気持も慰められるのでした。
この邸の主人である入道は、ひたすら勤行につとめて、俗念を払い去り、行いすましております。ただこの娘ひとりの身の末をどうしたものかと思い悩んでいて、その心中を、はた目にも見苦しいほど、時々愚痴をこぼしては。源氏の君のお耳にまでお入れ申します。
源氏の君もその娘のことは、良清の話に、かなりの美人だろうとお聞きになった記憶がおありなので、こうして思いがけず明石までめぐりめぐっていらっしゃったのも、娘との間に、そうした前世の因縁があるのだろうかとお思いになります。それでもやはり、こうして落ちぶれた境涯に沈んでいる間は、勤行よりほかのことは考えまい、都の紫の上にも、無事に一緒に暮している時ならともかく、そんなことになったら約束がたが うと恨むことだろうし、それも気恥ずかしく申し訳がないとお思いになりますので、娘に気のあるようなそぶりはお見せになりません。ただ折りにふれては、娘の性質や容姿も、噂通り並々ではないのだなと、お心が惹かれないわけでもないのでした。
源氏の君の御座所には御遠慮申し上げて、入道自身はめったに参上せず、かなり離れたしも にひかえています。ところが本心では、朝夕いつもお顔を拝してお世話させていただきたく、このままではもの足りないので、何とかして娘の件でかねての望みをかなえたいものと、ますます熱心に神仏に祈願しております。
入道は、年も六十ばかりになりますが、たいそう小ざっぱりした、感じのよい老人で、勤行のため痩せ細って、人品が気高いのでしょうか、偏屈者で老いぼれてはいますけれど、故実にもよくわきまえていて、むさ苦しい感じはなく、上品で趣味のよいところもあるので、昔話などさせてお聞きになりますと、源氏の君は少しは退屈もおまぎれになります。
この数年来は公私ともにお忙しくて、今までそれほどくわ しくお聞きになったことのない世間の古い出来事の数々をも、入道は少しずつお話申し上げるので、
「こういう土地へ来ず、またこんな入道にも会わなかったら、やはりこんな話も聞けず残念だったことだろう」
とお思いになるほど、興味深い話が交じることもあります。
入道はこれほど源氏の君にお近づきいたしましたが、たいそう気高く、気恥ずかしいほどの源氏の君の御様子に圧倒されて、前に、娘の宿世すくせ のことであんなことを言ってみたものの、今では気おくれしてきて、考えていることを思うようにも申し上げられないのを、もどかしく残念だと、妻と話し合っては嘆いています。当の娘は、並々の身分の男でさえ、見た目のよいのはみつからない、こんな片田舎で、世の中にはこんなすばらしいお方もいらしたのだと、源氏の君をお見上げしますと、わが身のほどが思い知らされて、とても及びもつかない遠い世界のお方だと存じあげるのでした。親たちが内々、あれこれと考えて気をもんでいるのを聞くにつけても、およそ不似合いな縁だと思って恥ずかしく、何事もなかったこれまでよりは、辛く悩ましいのでした。

源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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