〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/29 (月) 

明 石 (二)
こうした天候の続くうちに、世界は滅びてしまうのだろうかとお思いになっていらっしゃると、その翌日の明け方から、風が烈しく吹き荒れ、潮が高くさか巻き、波の音の荒々しさは、岩も山も打ち砕かれてしまいそうな勢いです。雷鳴がとどろき、稲妻の光り走るさまは、何ともたとえようもなくて、今にも頭上に落ちかかってくるかと思われます。その場にいる人という人は、誰一人生きた心地もありません。
自分はどんな罪を犯してこんな悲しい目に遇うのだろうか。父母にも会えず、いとしい妻や子の顔も見ないまま死ぬことになるとは」
と嘆き悲しみます。
源氏の君はお心を落ち着けて、
「どれほどの過ちがあったとしても、こんな海辺で命を落すことがあろうか」
と、気丈にお考えになりますが、あまりまわりの者たちが恐れ騒ぎたてますので、さまざまな色の御幣みてぐら を神にお供えになって、
住吉すみよし の明神さまよ、あなたはこのあたり一帯をしずまも っていらっしゃいます。まことにみ仏の現れました神ならば、どうかお助け下さいませ」
と、祈られて、多くの大願をお立てになります。お供の人たちもそれぞれ、自分の命はさしおいて、こんなに尊いお身の上でありながら源氏の君がまたとない災難で、海に沈まれ、お命を落とされそうなのがたまらなく悲しいので、気持をふるい立てて、多少とも気持のしっかりしている者はみな、自分の身に代えても源氏の君お一人をお救い申し上げようと、一緒になって大声でわめきたてながら神仏にお祈りします。
「わが源氏の君は帝王の住み給う九重ここのえ の宮殿の奥深くにお育てられになり、さまざまな快楽をごしいままにされ得意になられたちは言え、その深い御慈悲は日本国中に残りなくゆきわたり、悲境に沈み嘆いていた者たちを、実に多くお救いあげになりました。それなのに、今、何の報いで、こうしたはなは だ非道な波風におぼ れ死にをなさるのでしょうか。天地の神々よ、何卒なにとぞ 理非を明らかに示して下さい。罪なくして罪に問われ、官位を剥奪され除名の処分を受けた上、家を離れ、都を去って、明け暮れ心の休まる時もなくお嘆きになっていらっしゃいますのに、まだその上に、このような悲しい目にまで遭われ、お命も空しくなられようとするのは、前世の報いか、この世で犯した罪の罰か、神仏かみほとけが明らかに御照覧なさいますならば、この悲嘆からお救い下さり、源氏の君を御安泰にして下さいませ」
と、住吉神社に方向に向かって、色々な願いをそれぞれに立て、源氏の君も御自分の願をお立てになります。
また海の中の龍王や、その他のよろずの神々にも願をお立てさせになりますと、雷はますます鳴り轟いて、源氏の君の御座所ござしょ に続いている廊下の屋根の上に落ちました。雷火が燃え上がって廊下の建物はたちまち焼けてしまいました。
気も動転してしまって、人々は生きた心地もなく一人残らず、あわてふためいています。
寝殿の後ろの方にある台所のような建物に、源氏の君をお移し申し上げました。そこへ身分の上下の区別もなく人々が逃げ込み立てこんできます。ひどく騒々しく泣き叫ぶ声は、雷鳴にも劣りません。空は墨をすったように暗いまま、日も暮れてしまいました。
ようやく風がおさまり、雨脚もおとろえ、空には星も見えて来ました。
源氏の君がお移りになられた御座所があまりにもお粗末でおそ れ多いので、元の寝殿にお移し返そうとするのですが、落雷に焼け残ったあたりも気味が悪く思われるし、あれほど大勢の人々が踏み荒らしてありますので、御簾みす などもみな、風に吹き飛ばされてしまっていました。
ここでひとまず夜を明かしてからお移し申し上げようと、人々は暗い中をうろうろしています。その時、源氏の君はお経をおあげになりながら、前後のことを色々お考えになりますけれど、とてもお気持を静めることは出来ません。
月が上って、潮が近くまで満ちてきた波跡もはっきりと見えます。高潮の名残がまだ打ち寄せていて、月光のもとに荒々しく見えるのを、源氏の君は柴の戸を押し開けて、御覧になっていらっしゃいます。
この界隈かいわい には、物の道理をわきまえ、来し方行く末のことも洞察し、この天変地異の意味をあああれこれとはっきり悟る人もありません。ただ身分の低い漁師たちばかりが、貴いお方のいらっしゃる所だというので集まって来て、源氏の君がお聞きになられてもさっぱりわけのわからないことを方言で喋りあっているのが、源氏の君にはいかにも異様に聞こえるのですが、追い払うことも出来ません。
「この風が、まだしばらく止まなかったら、津波が襲って来て、何もかもさらわれてしまうだろう。神さまの御加護は大したものだ」
と言うのをお聞きになるにつけても、心細さは言葉にもなりません。
海にます 神の助けに かからずは 潮の八百会やほあひ に さらすへなまし
(海にいらっしゃる神々の尊さよ あらたかな神の御加護がなかったら はるかな沖に八百路の潮が さかまく深い海に流されて いまもさまよっていただろう) 
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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