〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/29 (月) 

明 石 (一)
相変らず雨風は止みません。雷は鳴り静まらないままもう何日も経ってしまいました。いよいよ心細く情けないことばかりが数知れず起こって来るのです。過ぎて来た日々といい、これから先もまた悲しいことばかりありそうなので、源氏の君はもう強気にもなれず、
「いったいどうしたらいいものか。こんなひどい目にあったからといって、都に帰って行ったところで、まだ勅勘ちょっかん も解けていないのだから、かえってますます物笑いにされるのがおちだろう。だからやはり、ここよりもっと深い山奥に分け入って、消息を絶ってしまおうか」
とお考えになってみても、
「嵐や津波におびえて逃げたなどと、人の口に言い伝えられたなら。後世までも情けない軽々しい名を残すことになるだろう」
と、思い悩んでいらっしゃいます。
夢の中にも、先夜とそっくりの怪しい姿の者ばかりがいつも現れて、つきまとっているのを御覧になります。
雨雲の晴れ間もなくて、明けては暮れる毎日が重なるにつれて、都の様子もどうなっていることやら御心配でなりません。こうして流浪のまま生涯を終ってしまうのかと、心細くてなりませんけれど、家の外に頭を出すことも出来ないほどの荒れ放題の暴風雨なので、わざわざ京からお見舞いに参上する人もありません。
ただ二条の院からお使いが、ムリな旅をして、言いようもないほどひどい姿でずぶ濡れになって、やって来ました。道ですれちがっても、人だか何だかわからないような、いつもなら、まず追っ払ってしまうにちがいないそんなみずぼらしい人でさえ、今日は来てくれたことが嬉しくしみじみなつかしくお感じになります。皇子という尊い御身分をかえりみられると、われながら御自身がもったいまくて、何という気持のくじけようかと、思い知られるのでした。紫の上のお手紙には。
「恐ろしいほどに小止みもなく雨が降りつづきます今日このごろの天候には、わたしの心ばかりか空まで閉じふさ がってしまったような気持がいたしまして、どちらを眺めてあなたをおしのびしていいのやら、その方角さえ分からなくなってしまいました」
浦風や いかに吹くらむ 思ひやる 袖うち濡らし 波間なみま なきころ
(はるかな須磨の浦風は どんなにはげしく吹くことやら あなたを思い遠くやら 泣き暮す涙の波にこの袖が 乾く閑もなく濡らされて)
心にしみて悲しいことを、いろいろと書きつづっておありなのでした。
源氏の君はそのお手紙をお開きになり、いっそうお涙がみぎわ の水も増しそうなほどあふれて、悲しみに目もくらむお気持になられます。お使いが、
「京でも、この激しい雨は、まことに奇怪な神仏のお告げであろうと申しまして、厄除やくよ けの仁王会にんのうえなどが行われるようだという噂でございました。参内なさる上達部かんだちめ 方も、どこも道が大水で塞がって参れませんので、政治まつりごとも中止になっております」
など、ぎこちなく、つかえつかえ語るのですけれど、源氏の君は京の言葉だと思えば、何でも様子がお知りになりたくて、使いの者をお前に召し寄せて、もっとお尋ねになります。
「ただもう、毎日、この雨が少しの切れ間もなしに降りつづきまして、その上風も時々吹き荒れながら、そんな状態が幾日もつづきましたので、これはただならぬことだと驚いているのでございます。それにしても、京ではまったく、こんなふに、地の底まで突き通るように大きなひょう が降ったり、雷が鳴り止まないということはございませんでした」
など、大変な天候に脅えきった表情で驚きかしこまっている顔が、ひどく情けなそうなのを見るにつけても、聞いている人々は、いっそう心細さがつのるのでした。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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