〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/28 (日) 

須 磨 (二十)
催馬楽さいばら の 「飛鳥あすか 」 を少し詠ってから、三位の中将は一別以来のお話を、泣いたり笑ったりなさりながらあれこれとつづけられるのでした。
若君がお小さくて、世の中のことをまだ何もお分かりでない悲しさを、父大臣が明け暮れに嘆きつづけています」
と、三位の中将がお話になりますと、源氏の君はたまらなく悲しくお感じになります。積もるお話は尽きることもありませんので、かえってその片鱗へんりん さえ伝えることが出来ません。夜もすがらお寝みにならず、お二人は漢詩を作って夜を明かしてしまわれました。
そうは言っての、世間の噂になるのを憚って、三位の中将は急いで京にお帰りになります。なまじお逢いになっただけに、かえってお別れの辛さはひとしおなのでした。素焼きのおさかずき で別れのお酒を酌み交されて、
< ひの悲しび涙そそ ぐ、春の盃のうち >
と、白楽天の詩を声を揃えて朗吟なさいます。
それを聞いていたお供の人々も涙を流しました。供人たちもそれぞれに、はかない逢瀬の別離を惜しんでいるようです。朝ぼらけ空に雁が連なって渡って行きます。源氏の君は、
故里ふるさと を いづれの春か きて見む うらやましきは 帰るかりがね
(なつかしの故里の都へ いつの春ゆるされて帰れることか 空のかりがねさえも 故里さして帰るものを うらやましい)
と歌われ、三位の中将は、一向に出発する気持にもなれないで、
あかなくに かりの常世とこよ を 立ち別れ 花の都に 道やまどはむ
(飽かず名残つきない心残して 仮の住まいの浦を別れて去れば はるかなる花の都へ帰るのさ 道中も涙にかきくれて 定めし迷うことだろう)
三位の中将の持参された都からのお土産の品々は、どれも趣向を凝らして調えてあります。源氏の君はこんなにお心のこもった訪問の返礼として、黒い馬をさしあげました。
「勅勘の身からの贈り物は、不吉とお思いかも知れませんが、<span>胡馬こば 北風にいなな く> という文選の詩もあることですから、この馬も喜び勇んで嘶いて故郷へ帰ることでしょう」
とおっしゃいます。いかにも世に稀なすばらしい駿馬しゅんめ のようです。返礼に三位の中将は、
「これを形見と思って、わたしを思い出して下さい」
と言いながら、世に名高いすばらしい名笛一管だけを贈られました。あとは人目に立つようなものは、お互いに御遠慮されました。
日がしだいに昇ってきて、心がせきますので三位の中将は後ろ髪を引かれる思いで出立なさいます。それをお見送りになる源氏の君の御様子は、なまじお逢いしたばかりにかえって、一層お悲しそうです。三位の中将が、
「いつまたお目にかかれますことやら、いくら何でも、まさかこのままではすまないでしょう」
とおっしゃいますのに、源氏の君は
雲近く 飛びかふたづ も そらに見よ われは春日はるひ の くもりなき身ぞ
(雲近く飛びたつ鶴のように 都の雲居に帰って行くあなたも 宮中から見ていてください わたしはこの清らかな春の日のように 一点の曇りもない潔白の身なのを)
「そう思いながらも一方では、ゆるされる日を頼みにしているのですが、一度こうした無実の罪に遇った人は、昔の賢人さえ、なかなか世間に復帰することは難しかったようですから、わたしもどうせ、都の地をふたたび見られようとは思っていません」
などとおっしゃるのでした。三位の中将は、
たつかなき 雲居くもゐ にひとり をぞなく つばさ並べし 友を恋ひつつ
(わたしはひとり都の空で 心細さに泣いている鶴のように 昔都の空で共に つばさ並べていたあなたを 恋いしのびながら)

「もったいないほどいつも親しくしていただきましたが、かえってこの別れの辛さを思うと、<いとしも人にむつけれむ> と古歌にあるように、悔やまれる折が多いのでして」
などと、しんみりお話になる暇もなくて、お帰りになりました。
その後の名残がひとしお悲しくて、源氏の君はぼんやりと物思いに沈みながらお暮らしになります。

源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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