〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/28 (日) 

須 磨 (十九)
須磨では、年も改まり、日も次第に長くなって所在のない折から、去年植えた若木の桜もちらほら咲きはじめました。空の様子もうららかでのどかなのを御覧になるにつけ、源氏の君は、さまざまなことを思い出されて、つい、泣いておしまいになることが多いのでした。
二月二十日過ぎには、去年都を離れてきた時、別れ難く不憫に思った女君たちの御有り様などが、たいそう恋しくて、宮中の南殿なんでん の桜も今頃は花盛りになっているだろう。先年の花の宴の折の、故桐壺院の御機嫌うる わしかった御様子、まだ東宮であられた今の帝の、たいそうお美しく優雅でいらっしゃって、自分の作った詩句をお吟じになられたことだった、などと、それからそれへとお思い出しになられるのでした。
いつとなく 大宮人おほみやびと の 恋いしきに 桜かざしし 今日も来にけり
(いつもいつも都の人の恋しくて しのんでばかりいるうちに 桜かざして宮中の花の宴に 晴れやかに舞ったあの日が めぐりきて都のなつかしさよ)
こうしてたいそう所在無くお暮らしのところへ、左大臣家の三位の中将が訪ねて来られました。今は宰相さいしょう に昇進していて、人柄もたいそうすぐれているので、世間の人望も得て、重んじられていらしゃいます。それでも、今の時勢をつくづく味気なく不本意にお思いになり、何かの折につけては、源氏の君を恋しくお思いになります。たとえ須磨へ見舞いに行ったことが噂になり、罪に問われようともかまうものかと覚悟をなさって、突然、須磨の源氏の君をお訪ねになったのです。
源氏の君のお顔を一目見るなり、嬉しさと悲しさがひとつになってこみ上げてきて、まず涙がこぼれるのでした。
源氏の君のお住居の御様子は、すっかり唐風からふう にしつらえていらっしゃいました。あたりの風景は、絵に描いたようなところへ、竹を編んだ垣根をめぐらせ、石の階段きざはし 、松の柱など、粗末ながら、風変わりで情趣があります。
源氏の君はまるで山里の住人のように、黄色がかった薄紅色の下着の上に、青鈍あおにび狩衣かりぎぬ指貫さしぬき という質素な身なりで、ことさらに田舎風におやつしになっていらっしゃるのが、かえって結構で、見るからにほほえましい、美しいお姿なのです。
お使いになっていらっしゃる調度なども、ほんの間に合わせの物ばかりで、御座所も外からすっかり見通されます。碁や双六すごろくばん や、それの付属品、弾棊たぎ などの娯楽の道具も、田舎作りにしてあります。一方、念仏読経の調度が揃っているところを見ると、勤行にもお励みなのだとお見受けされます。
お食事にしても、ことさら土地柄らしく侘びたように趣をみせてお作らせになります。海人あま たちが漁をして、貝を持って来たのを、お前にお呼び寄せになって御覧になります。海人たちにこの海辺で暮して来た長い年月のことなどを中将がお聞かせになりますと、さまざまな苦労の絶え間のない暮しの辛さなど申し上げます。何やら言葉もよくわからぬことを、とりとめもなく鳥がさえず るようにしゃべ りつづけているのも、
「人間の心に思うことは所詮貴賎にかかわらず同じこと、そこに何の違いがあるだろうか」
と、中将は可哀そうにお感じになるのでした。
お召物などをお授けになりますと、海人たちは生きていた甲斐があったと有り難く思うのでした。
お馬を近くに何頭もつないで、向うに見える倉のような建物から、稲がらなどを取り出して馬に食べさせているのなどを、三位の中将は珍しそうに御覧になります。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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